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『日本書紀』編者が用いた便利な文例ネタ本である類書:池田昌広「『日本書紀』の出典」

2022年11月19日 | 論文・研究書紹介

 このところ、『日本書紀』の記事に関する論文の紹介が続きました。問題は、『日本書紀』のそうした記事が、元の資料をどの程度反映しているか、完成近い頃の編者の潤色がどの程度入っているかです。

 そのどちらの場合であっても、『日本書紀』は多様な漢籍の表現を利用して書かれているのですから、その利用は元の漢籍に基づくのか、他の文献、特に広範な用例を集めた類書などからの孫引きか、という点が重要となります。類書というのは、多くの書物から引いた文例を項目ごとに整理してならべた分厚い百科事典のようなものです。

 この問題を検討したのが、

池田昌広「『日本書紀』の出典ー類書問題再考ー」
(瀬間正之編『「記紀」の可能性』<古代文学と隣接諸学 10>、竹林舎、2018年)

です。

 池田さんのこの論文は、類書利用の研究史をふりかえったうえで、池田さんの最新の見解を示したものです。先に紹介した笹川論文については、文章が硬くてわかりにくいと書いたのですが、池田さんの場合は、森鷗外など明治の文豪を手本にしているのか、読んでいて心地良い、きりっとした文体となっています。

 かつては原勝郎とか山口剛などのような名文家の学者もいたのですから、現代の研究者も、名文とは言わないまでも、読みやすく理解しやすい文章を心がけてほしいですね。

 さて、『日本書紀』が類書を利用しており、直接の引用とは区別しなければならないことは、小島憲之が大著『上代日本文学と中国文学』上(塙書房、1962年)で詳細に論じたことで知られました。小島は、『日本書紀』は元の文献ではなく、唐代に盛んに用いられた類書の『芸文類聚』から孫引きしている箇所が多いことを明らかにしたのです。

 ただ、『日本書紀』が類書を利用していることは間違いないものの、『日本書紀』の表現が『芸文類聚』に掲載された文章の表現と一致したとしても、『芸文類聚』から孫引きしていたとは限りません。というのは、『芸文類聚』は、それ以前に登場した類書の文章をそのまま使っていることが多いからです。

 そうした類書の影響関係については研究が進んでおり、中でも勝村哲也が重要な発見をしました(勝村先生は、京大にいた頃、古典研究にコンピュータ研究を持ち込み、研究会を組織して各地の研究者の交流を盛んにさせた方です。先生が島根県立大学に移ってから開催した国際シンポジウムが忘れられません)。

 その影響関係を、池田さんは以下のようにまとめています。国名は私が付けました。(長文)や(短文)というのは、元の文献から長く引用しているか、短いかということです。

梁『華林遍略』(長文)→→北周『修文殿御覧』(短文)-→宋『太平御覧』(短文)
          |→→唐『文思博要』(長文)--→/
          |→→唐『芸文類聚』(短文)--→/

 『華林遍略』は720巻もある大部なものです。『修文殿御覧』は、それを半分にまとめたものであり、それをほぼそっくり収容したうえで多数の用例を加え製作したのが『太平御覧』1000巻です。『文思博要』は1200巻、『芸文類聚』はお手頃な100巻。

 ただ、池田さんによれば、右の図はおおよその傾向であって、実際には『華林遍略』でも短文の部分もあるうえ、『芸文類聚』は『修文殿御覧』からも文を引いている由。

 さて、小島の『芸文類聚』説は画期的な提唱でしたが、疑問も早くから提示されていました。たとえば、『日本書紀』冒頭の部分は呉の徐整の『三五暦紀』に依っているものの、本書は中国でも早くに失われており、『日本書紀』の引用は直接の引用でなく、類書に引かれたものの孫引きであることは確かです。

 そこで小島は『芸文類聚』に依ったとしたのですが、清水茂は、『日本書紀』に見えない部分が『太平御覧』の該当箇所に見えるため、『日『修文殿御覧』を検討すべきだと論じました。

 また、勝村も『日本書紀』の冒頭部分は、『芸文類聚』でなく『修文殿御覧』天部の五重説に基づくと指摘しました。さらに、神野志隆光と瀬間正之の他の箇所について、『修文殿御覧』を利用した可能性を指摘しています。

 ただ、池田さんは、『修文殿御覧』によれば疑問がすべて解決するわけでないことに注意し、その元の『華林遍略』を利用した可能性もあると指摘しました。『芸文類聚』にあって『修文殿御覧』に見えない例もあるからです。

 ところが、近年、『芸文類聚』説の復権を説く説を瀬間さんが発表しました。池田さんはこれを批判したものの、誤っていた部分もあるため、問題とされた雄略紀の文章の出典を再考し、『日本書紀』の編者は『芸文類聚』を手にしていたと推測します。ただ、『芸文類聚』には見えない部分があるこも確かであり、これをどう考えるか。

 実は、『日本書紀』は類書以外に、比較的新しい唐人の文章を流用したと思われる箇所があることが指摘されています。そうした文章に、問題の箇所が含まれていた可能性もあるのです。また、瀬間さんや八重樫直比古さんは、漢訳仏典の利用も発見しています。そのことから、池田さんは、『日本書紀』の最終段階で加筆した編者は、仏典のかなりの知識があったとします。

 森博達さんの研究によって『日本書紀』の編纂過程が明らかになり、和習の多さから、古典を片端から読んで暗記した中国の知識人と違い、潤色者の漢文能力があまり高くないことが明らかになりました。そうした潤色者が膨大な漢籍からどのように適切な表現を見いだせるかを考えれば、類書の利用を想定するほかありません。

 慎重な池田さんは、そうした類書について、現状では「『華林遍略』と『芸文類聚』の併用を想定する段階にいたった」とし、『修文殿御覧』説を支持する徴証はないとしたうえで、今後のさらなる出典を検討する必要性を説いています。

 無難な結論ですが、疑問は、『日本書紀』の編纂時期に、『華林遍略』と『芸文類聚』をともに揃えて利用できたか、という点です。『芸文類聚』は100巻ですし、便利なので唐代には盛んに書写されたでしょうし、その一部だけが単行されたこともあったでしょうからから、まだ良いです。

 しかし、『華林遍略』は古い時代のものであって720巻もあります。『華林遍略』の一部や縮小版、ないし『華林遍略』の要所を大幅に取り込んだ便利な本は無かったのか。

 なお、私自身は、「憲法十七条」を含む推古紀が、厩戸皇子について異様に「聖」という点を強調していることから見て、類書の「聖」の部分を利用しているのではないかと古い論文で推測しておきました。これは調べてみる価値がありますね。

【追記】類書の巻数が間違っていた部分を訂正し、説明を少し補足しました。

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