千の天使がバスケットボールする

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「兄弟」(上・下)余華著

2008-10-27 22:51:09 | Book
この本は、トイレ事情に難のある中国では便所においてトイレットペーパーがわりに一枚一枚ちぎって使うべきモノなのか、それとも確かに異臭だが?中国の近代文学の香りぷんぷんの傑作なのか。13億の民の中国でノーベル賞に最も近いと評判の作者の10年ぶりの長編は、中国で出版されるやいなや、130万部を超える大ベストセラーになりながらも賞賛と批判の両極端の声の嵐で論議を呼んだという。それもそのはず。。。

およそ40年ほど前の上海に近いとある田舎町。
14歳の少年・李光頭(リ・グアントウ)は、公衆便所で女性の尻をのぞいて捕まってしまうシーンから始まる。少年は町中を引き連れ回されるが、5人の尻の中でも、絶世の美少女の林紅(リンホウ)の美尻もおがめた僥倖を語ることを商売にして、次々と男達と取引する。李光頭は、同じように覗き見をして肥溜めに落ちて溺死した父よりも、ずっとウンがついて回り商売の才能があったと言うべきだろう。
やんちゃな次男には、母親が再婚した相手の連れ子にあたる義理の兄、宋鋼(ソンガン)がいた。宋鋼は、彼とは対照的に背も高く顔立ちも整い、誠実で実直な少年だった。彼ら兄弟の繋がりは強く、病弱な義理の母に、宋鋼はけなげにもたった一杯のごはんも李光頭に譲ると約束するのだったが、文化大革命という激動の時代が過ぎて開放経済に移行していくと、やがて弟は廃品回収業から商才をあらわし大富豪になっていく一方で、兄は愚直過ぎたために愛する女性と結婚して家庭を持ちながらも、失業して生活に行き詰まりとうとう自分の人生の道を失い、兄弟の道はわかれていってしまった。

物語のはじまりの悪臭漂う場面、彼らの汚く雑多な会話、暴力と貧困。そんな展開に、自分の感性にはこの本は堪えられない、あわないのではないかと迷いながらも読み始めたのだが、彼ら兄弟の暮らしぶり、劉鎮の町の市井の人々の生活の変動、文化大革命の悲惨さと悲劇の中に踊る喜劇の躍動感、そして開放経済の力強さと発展の中に織り込まれた悲しみのペーソスに、いつのまにかひきこまれてしまい、1000ページ近い上・下を一気に読まされてしまった。
処女膜再生、美処女コンテスト、豊乳クリームに整形手術、滑稽で荒唐無稽な道具立てと欲望剥き出しの展開に、差別用語も並び、知識人の道徳心と感性を逆なでするような文学を誕生させた余華は、確信犯である。私は、文章にこだわりをもつ。それは、より洗練された美しい文章をということなのだが、その整然とした美の中に、時に本質が浅くなるときもあることを知っている。
余華は言う。

「益々多くの人が優雅さこそ文学のスタイルに慣れきってしまった時、粗野であることも同じように文学のスタイルであることを。益々多くの人が自分たちの生活がブティックとカフェからなっていると考えている時、私は見せたいのです。見るに堪えないような光景の方がブティックやカフェよりも普遍的であることを」

私たちは、欧米流の優雅な旋律に憧れ、今ではそれが純文学だと思い込んでいるのではないだろうか。荒削りな文章に漂う叙情性を忘れてしまったのだろうか。
60年代からはじまった文化大革命という粛清が70年代半ばに終息し、この40年間で肥大化する開放経済の奔流に、多くの中国人は様々なものを捨て、失い、多くのものを産み出した。本書は、先進国がゆっくり時間をかけて獲得した近代化を、一気に激変した結果、混迷する現代の中国そのものである。”優しさ”が、路上でまるで使用済みのトイレットペーパーのように流れている日本には、見当たらない圧倒されるような傑作、、、と私は断言したい。いずれにしろ、本書を愚作とトイレットペーパーがわりに肥溜めに捨てる意見もありだが、今後少なくとも10年は、中国文学、ひいては現代中国を語るに「兄弟」は人々の口の端にのぼり無視できないであろう。