千の天使がバスケットボールする

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NHK「アウシュビッツ」第1回大量虐殺への道

2005-09-04 17:36:03 | Nonsense
8月16日からNHK戦後60年特集として、「~アウシュビッツ強制収容所 解放から60年~」(AUSCHWITZ-THE NAZIS & THE FINAL SOLUTION ~Surprising Beginning/Orders and Initiatives~)が放映された。
第2次世界大戦、ナチスによるユダヤ人絶滅計画を着実に実行し、ユダヤ人を中心に110万人以上の死者を出したポーランド・アウシュビッツ強制収容所。ここで起こった出来事を、東欧であらたに見つかった資料を含め、英国BBCと米国が製作した合計5回の番組である。ナチスの元親衛隊員や生き延びた被害者の証言を含め、CGを使いわかりやすい説明や図、当時の実写を紹介しながら編成した報道番組の、第1回め「大量虐殺への道」である。(第2回の「死の工場」は録画に失敗して残念ながら、観ることができなかった)

ポーランドの緑輝く美しい田園地帯が続く。その先に20世紀未曾有の大量虐殺が行われたアウシュビッツがあったとは、今では想像できない。1940年4月、春を迎えていっせいに鮮やかな緑に大地がそよぐ頃、ひとりの軍人がやってくる。ナチス親衛隊のルドルフ・ヘス大尉が、この収容所の新しい所長として任命されたからだ。当初、この地方は馬のほうよう地だったが荒れ果てていた。収容所の建物の外部は頑丈だったが、内部は害虫がうようよしていた。最初はポーランドの政治犯を収容するための収容所だったのだが、1万人もの収容者を入れる施設を作つのが彼の任務だった。

「ポーランド人を、奴隷のように働かせて搾取する」そんな目的を遂行するためには、多勢の人的資源が必要。おりしも41年、ドイツのソビエト連邦侵攻とともに、多数のソ連捕虜を収容するようになった。やがてナチスは、共産主義者同様、ソビエトに暮らすユダヤ人へも危険視しして、標的にするようになる。

そしてアウシュビッツ周辺は、天然資源に恵まれていることに、I・Gファルゲンが軍事用の合成ゴムの研究し、新しい工場をつくるのにうってつけの場として、着目した。新しい化学工場への労働力を供給するためにも、更なる収容者を望むようになった。親衛隊長官ヒムラーは、3万人規模の収容所を作る決意する。ここから、第三帝国最大規模の収容所へと転換していく。

「働けば自由になれる」
通称死の門に飾られたメッセージだが、この中で行われたのは世界中の誰もが知っている残虐な行為だ。或るものは後手に縛られ宙づりにされ、両腕の関節がはずれ、また働けない者は、射殺されるかガス室送り。シアン化水素が気化して猛毒になるティクロンBを使った実験を行い、効率的な大量虐殺の方法を次々に考え、実行していく。
後年、元ナチス親衛隊のオスカル・グレーニングはこの時のことをこう語っている。
「本当に必要なことなのか自問したが、すぐにこう思い出した。彼らは敵だし、今は戦争中なのだからと。」

1939年、ヒットラーは障害のあるこどもを安楽死する計画を成人にまで対象を広げた。派遣された医師が、患者を選別する施設は、6ヶ所あり、そこから7万人もの障害者が、一酸化炭素のシャワーを浴びて亡くなる。この時に使用されたトラックは、やがてユダヤ人大量虐殺への使用される。ユダヤ人を裸にし、トラックに収容して一酸化炭素を充満させ、亡くなる頃にはそのままトラックで森まで輸送して、死体を遺棄して埋める。ドイツ人的な効率性に寒気がする。

1942年1月20日、国家保安本部長官ラインヒルト・ハイドリッヒが議長、アドルフ・アイヒマンが書記を務めたヴァンゼー会議で、ナチス高官らは「ユダヤ人問題の最終解決」について確認し、議事録を作成する。すべてのユダヤ人を根絶する計画が本格化した。
同盟国スロバキアでは、聖職者であった当時の首相が、宗教的にも反ユダヤ主義だったことから、外務省は移送するユダヤ人ひとりにつき、500マルク支払う取引を高官と成立させ、4万から6万人ものユダヤ人がドイツ側に移送された。収容所の片隅に農家をガス室に改造し、「赤い家」「白い家」として選別された人々の大量虐殺をめだたずに行っていた。

戦後、戦犯として収監されたヘスは、この時の模様をこう思い出している。
「収容者を穏やかにガス室に送ることが大変だった。
美しい花が咲く中を、人生の盛りの男女がガス室へ行く。生と死というものを感慨深く感じた。
けれどもユダヤ人虐殺は、正しいと思っていた。」