千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「パンツの面目ふんどしの沽券」

2005-09-03 21:59:53 | Book


米原万理さんは、正直な方である。そして、コミュニストのお父様のお仕事の関係で、プラハのソビエト学校で過ごされたせいか、夢見る少女が年齢を重ねたというよりも、冷静なリアリストである。このようなリアリストは、容赦のない鋭い観察力と分析力をもって現実社会を斬るのだが、その万理さんの瞳と耳は、人間の裏にかくされた哀しみや愛情に包まれた深遠、或いは「ガセネッタシモネッタ」のような女性の未開の分野への探求心という両極端に向かう。それが彼女の多くの著書が、愛される理由だ。そう、私は米原万理さんの著書と人柄をけっこう気に入っている。

このたび我が師匠ともいうべき米原先生の、持ち前の好奇心とあくなき探究心は、アダムとイヴが禁断のりんごを食べてしまって以来の、人類の最初の下着、装着物を標的に選んだ。この意外性と女性らしからぬ大胆さに、さすが・・・と私は尊敬のまなざしで一字一句堪能させていただいた次第である。その研究報告は、恥かしいから隠すのでなく、隠すから恥かしいのだという”恥”の文化論から、使用具合の按配、女性の月のもの、エロスからスカトロジーまで広範囲に渡り、読者からのアドバイスや図解も示し、豊富な資料を駆使した万理節に、私も思わずうなる。

たとえば、イエス・キリストが身につけていた下履きが、パンツかフンドシかという疑問は、「やはりイエスは恥部をさらしたまま磔にされたのではないだろうか」という疑惑に及んだ時は、敬虔なクリスチャンに著者自身が磔にされるのではないか、と小心者の私なんぞハラハラして読んだものだ。そして、私もかねがね不思議に思っていたイチジクの葉っぱは、何故落ちないのかという謎を解くべき、(あくまでも幼少時代だが)庭のイチジクの葉っぱを貼り付けてみるという詳細な実験結果もあり。このたびの調査により、実は、アレはイチジクの葉っぱを綴った裳だったという真理にたどった。

こんな調子で、最初から最後まで格調高い教養書に出逢えて、なんともいえない充実した読書の時間だった。通勤電車内で、おくゆかしい女性が読むには、ちょっとした勇気がいったが。。

日本男児よ、男の沽券をかけて褌をしめてかかろう!と、大和撫子としては言いたいのだが、かっては褌が世界のグローバルスタンダードだったという事実は、少々寂しい感もなきにしもあらず。

パンツは、社会と個人、集団と個人、個人と個人の間を隔てる最後の物理的な障害だからこそ、大きな歴史や経済を捉えるよき手段、大きな物語と小さな物語をつなげる接点になるのではないかということで、このテーマーに果敢なる挑戦をした米原先生は、最後にこのようなアジテーションで褌をきりりと締めている。

「さきにパンツありき」←大文字ゴシック、24ポイントぐらいかな?