旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ヴェゾン・ラ・ロメーヌ~古代ローマ遺跡

2021-01-23 17:29:45 | フランス
2009年南フランスの旅より
中世の廃城が高台に見える。

古代ローマの都市は中世よりずっと大きく、平地にひろがっていた。

まっすぐな広い道↓

↑大きな公衆トイレ(写真下の方に座るところがたくさん見える)↑

パン焼き窯がみえる↓


中庭を列柱が囲む大きな邸宅がたくさんあった。

これら住民のための大きな劇場もあるのだが、ちょっとした丘の向こう側になる。

古代人も歩いた(かもしれない(笑))緩い上り坂の小道を歩くと

↓こんなトンネルがあらわれた↓

抜けると

広々とした劇場に出る

かつては後ろ壁もそびえていただろうに

※もっともきれいに残っているオランジュの壁をこちらからごらんください
現代でもイベントが行うことができるように観客席は完全に修復されている。

↑オリジナルの階段はいちばん下だけ。
**
遺跡に併設された博物館に、発掘されたモノが展示されている。

↓左は水道管。上下水道が完備されていた。

邸宅の床を飾っていた見事なモザイク画

↑これがみつかった家は「クジャクの家」と呼ばれている。
住人の表札があったわけではないので発見されたモノで名前がつくのだ。

↑これが見つかったのは「銀製の貴族の胸像の家」↑

↑軍装の皇帝ドミティアヌス。
ローマにコロッセオを建造したヴァスパシアヌス帝の次男。
どのあたりに置かれていた像なのだろう。

↑左は五賢帝の二番目ハドリアヌス、右は第三代皇帝クラウディウス。
この二体が裸体なのはすでに没して神格化されてからのものだからだろう。

そして、ここにある彫刻のなかでもっとも見るべきものと感じたのは

紀元後二世紀ぐらいの制作と推定されている「冠のあるヴィーナスの頭部」





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ヴェゾン・ラ・ロメーヌ~山の手の中世の街

2021-01-21 22:09:51 | フランス
2009年南フランスの旅より
ローマ時代の大都市が中世には小さくなってしまう例はよくある。ヴェゾンも「ローマの」という形容詞付になってしまうほど古代の方が大きな町だった。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)が潰えた中世になると、人々は自然の要害である山の手にかたまって住むようになった。
街が近づくと岩の上の廃城が見えてきた。

↑写真左手に見えるのが山の手にかたまった中世の街。
↓途中にちらっと見えたケルト時代?巨石文明?の遺跡


旧市街入口の小さなホテルにチェックインし、散歩に出た。

ほんとうに小さな旧市街


↓これは朝の散歩にて↓ こういう街なら、散歩が楽しい立地の小さなホテルに泊まりたい(^.^)

この旧市街の上にでると、さっき遠くから見えた11世紀?頃の廃城に出る↓

この向こう側はえぐれた崖になっているのだ

ここから見晴らす川の向こうの平地が↓

ローマ時代の都市だった↑
山の手の中世都市と平地の古代ローマの街の間にはウヴェズ川が流れていて、

そこに渡された橋は、ローマ時代の紀元後一世紀からのもの。

欄干は修復されているようだが、十七メートルのアーチはローマ時代からのオリジナル。

夕食に入ったイタリアンのお店でチーズたっぷりのペンネが忘れられない↓

こんなふうに、チーズをくりぬいて調理!

もう一度食べてみたいなぁ(^.^)




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マルセイユの旧港をちょっと歩く

2021-01-20 09:49:45 | フランス
2002、2013年南フランスの旅よりフランス第三の都市、第一の港街。
ローマ以前から二千五百年にわたり繁栄してきた。
その中心、旧港を大勢の人が歩く休日の夕方。

↑遠くの山にノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド大聖堂。
1852年に建設がスタートし、1864年に未完のまま教会として使われはじめた。パリをはじめフランスの都市が大改造されていた時期になる。

マルセイユの街に入ってくるときによく目立つ。

歴史ある大都市なのだけれど、日本のグループがマルセイユをゆっくり観光することは少ない。

街の様子を見ていると、そのわけがだんだんわかってくる。

最初にマルセイユを訪れた二十年以上前、あの大聖堂に入った↓

※堂内には航海の安全を祈願する絵がたくさん飾られていた
教会を出て坂道を歩いていると突然、山側の生垣を飛び越えて現れた男が、小松のとなりにいた人のカバンをひったくって風のように海側に飛んでいった。三秒もなかった。飛んでゆく男の背中をあっけにとられて見送った。

教会の高台からはマルセイユの港↓手前のヨットがたくさん停泊しているあたりが冒頭の写真を撮った旧港↓

デュマが「モンテクリスト伯」の舞台に選んだ監獄の島=イフ島もはっきり見える↓

1524にフランソワ一世がマルセイユ港を護る砦として岩礁の上に建てさせたというから、東京湾のお台場のような場所か。
16世紀末には監獄となり、フランス革命後も同じ目的で使われていた。
↑今は観光船で訪れることができる。

2002年に訪れた旧港ではとれたての魚を売っていた


こういう魚の出汁をつかうのが「ブイヤーベース」。

観光雑誌でエビや魚がごっちゃり写っているのは「ブイヤーベース」をつくったあとの殻。
食べるべきはこのスープそのもの。
ニンニクマヨネーズソース(みたいな独特のソース)をつけたパンを浸して、チーズをいっぱいかけて味わうのです(^.^)



十年後の2013年に旧港を訪れると、巨大な鏡の屋根が出現していた↓

建築家でアーティストでもあるノーマン・フォスターの「オンブラジェール(日陰?)」という作品だった。

六メートルの高さに、幅22m×長さ48mのステンレススチール製一枚鏡を設置。

あとから知ったのだが、この年マルセイユは「ヨーロッパ文化首都」に選ばれ、その記念として、我々が訪れるたった二日前に序幕されたばかりだった。

予約されていたレストランが旧港の近くで、終わってから夜景を見られたのはよかったけれど、バスが止めてあるところまで歩くのが心配だったっけ。
**
マルセイユに入ってくるときに↓てっきりローマ時代のものだと思った凱旋門↓

1784年にアメリカ独立戦争の勝利を祝ってルイ16世時代に建設がはじまったものだそうだ。
※フランスは宿敵イギリスの力を弱めるためにアメリカ植民地の独立運動を当初から支援していた
実際に完成したのは1839年。当初の目的とはぜんぜん違うモニュメントとしてここにある。

***

2013年マルセイユ新市街のホテルに泊まった朝。

休日で「のみの市」がホテルの前で店をひろげはじめた。

バスのいちばん前の席でみていると、
証券取引所の工事用幕がすばらしいだまし絵になっていてびっくり!
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オランジュの「フランスでいちばん偉大な壁」

2021-01-18 09:30:46 | フランス
2009年南フランスの旅より
「これは私の王国で最も美しい壁だ C'est la plus belle muraille de mon royaume 」
と、ルイ14世が感嘆した。

紀元前一世紀に建設されたローマ劇場の壁がここまできれいに残されている例はほかにない。
※ボスラ(シリア南部)、パルミラ(シリア中部)のローマ遺跡にもあるが、内戦で損傷し、現在近づくこともできない。

実際に見てはじめて、ルイ14世と同じ気持ちになった。
かつては白い大理石と数々の彫刻で覆われていたはずだ。

ローマ時代の建造物は後世に別の建物をつくる石材に利用され、原型をとどめていないものが多い。
この「偉大な壁」が現代まで残されたのは、そのままオランジュの城壁の一部として使われていたからである。

高さは36m、幅103m(内ステージは61m)
上段に置かれた初代ローマ皇帝アウグストゥスの像が3.5mもある。
↓この像は1951年にここに置かれたもの。古代ローマ時代には芸術の守護神アポロ像だったと推察されている。

その巨大さ↑下の人間と比べてみてください。

17世紀にルイ14世が訪れた時にはどんな姿だったのだろう?

↑これはもう少し後の時代の版画だが、壁の前=観客席だったあたりをぼろぼろの家が埋めている。
ルイ十四世が見たのは、中世のボロボロの家の上に屹立する偉大な古代ローマの壁だった。

観客席はほぼ現代の修復によるもの↑

壁を横からみたところ↑この迫力は直接見上げてみてはじめてわかるものだった↓裏面

↑裏面が完璧なのは、ルイ14世以降のフランス王も修復を重ねてきたおかげだろう。

**
★「オランジュ」という名前はローマ以前のケルト系民族の時代に水の神にちなんだ「アウラシオ」という街があったことにちなむ。
果実オレンジは東インドのアッサム由来で語源はドゥラビダ語やサンスクリット語からとか※こちらにその解説がありました
大航海時代にかけて果実のオレンジがヨーロッパに入ってくると、街の名前と果実の名前が似ていて合わさってゆき、街の紋章が決められる際につかわれた
五世紀にゴート族の侵入でローマ帝国が崩壊し、中世の神聖ローマ帝国からの曲折を経てドイツ起源のナッサウ家が領有することとなる。
16世紀の宗教改革の時代に宗主国(といっていいのか)と共に新教プロテスタントへ。
ナッサウ・オレンジ家=オラニエ・ナッサウ家(オランダ語)の領主モーリス(オランダを独立へ導く、通称「沈黙侯」の息子)は1622年にフランスから防衛するためにオランジュを城壁で囲んだ。
※オランダが独立国となり、シンボルカラーがオレンジ色なのも、この都市に由来する。
しかし、ルイ14世がオランダと戦争をはじめるとあっという間にオランジュを占領。
1713年のユトレヒト条約で正式にフランス領となる。
※ちなみにジブラルタルはこの時にイギリスに割譲された

オランジュはフランス王国時代から保護されてきたローマ遺跡が旧市街に点在している。

特に有名なのは凱旋門。
劇場と同じく紀元前一世紀に建設され、この街に入植したローマ第二軍団の功績を主に刻んである

というのだが・・・

訪れた2009年秋には修復中でした。
※旧ローマのアグリッパ街道が街を抜けていく北側の門だった


博物館にはローマの退役兵たちが入植して街を建設していった時の資料が展示されている。

整然と区画整理された町、公正な税制。
征服されたガリアの人々も快適な社会に生きることができると分かれば、だんだんとローマ化していったのだ。




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ユゼス

2021-01-17 10:00:12 | フランス
2009年南フランスの旅より
ユゼスは、ニームへの水道橋に流れる水の源が近い。川の上に位置する中世からの街。

「フネストル(窓)の塔」と呼ばれる11世紀の鐘楼が街のシンボルになっている。

フランスではここでしか見られないタイプだそうだ。
登りたいけど立ち入り禁止(^^;

同時代の教会本体は「アルビジョワ十字軍」で壊されてしまい、

19世紀の再建された正面玄関になる。

内部は古い教会時代の名残が感じられる。

**
ユゼスの街の繁栄は司教座と共に公爵の宮殿があったことがおおきい。
二つの勢力が競っていた結果、小さな旧市街に立派でいかつい(防御に適した)建物がいくつも建設された。

公爵宮殿のベルモントの塔(12世紀)にのぼる。

これを建てさせた公爵の名前に由来する。

同じ敷地内の公爵の礼拝堂の屋根↑

逆方向、すぐ近くに司教の塔↑同じく12世紀ごろのもの。
***
ユゼスのオゼルブ広場(place aux herbes「ハーブの」の意味)はフランスでも指折りの歴史をほこる市場がでる。雨でもだいじょうぶなようにだろうか、広場を囲む建物の地上階部分は大きなアーチになっている。

土曜日の朝

ちょこっとずつ試食?



ここの食材がレストランでこんなふうに提供されるのか

夜のアーチ


日曜日の朝、市場はきれいになくなって静かな広場。落ち着いたアーチを散歩。




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