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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

1992年のモンゴルへ~ザイサントルゴイの丘、チャーター機で南ゴビへ

2020-08-13 08:26:08 | モンゴル
1992モンゴルの旅より

ウランバートル郊外ザイサントルゴイの丘に1971年に建設された戦勝記念碑がある。

司馬遼太郎氏は記念碑が出来て二年後の1973年にここを訪れている。
二十歳過ぎのころに満州で戦車隊に在籍し、モンゴルとの国境線近くにも配属されていた彼は、ソ連の捕虜となってウランバートルで強制労働させられた日本人のことを他人とは思えなかっただろう。

ソ連とモンゴルが旧日本軍の旗を踏み折る図

ナチスドイツの旗も

標高千三百メートルほどの丘からは、当時はまだほとんどビルの無かったウランバートルが見晴らせていたっけ。
**
翌日は朝の飛行機で南ゴビへ

当時のモンゴルは航空会社が石油を買えなくて、旅行会社がチャーターした国内線しか飛ばすことができなかったとガイドさんが言っていた。
我々外国人のためにズルチン旅行社(当時はほぼ独占の国営旅行社のようなものだった)が燃料代を出したフライトだけが飛んだ。

一時間ほどの後、舗装などされていない草原のダート滑走路に着陸。
すぐ横に宿泊するツーリスト・ゲルがあってそこから撮った、もう一機が着陸する様子。
昼食の後、おんぼろバスで一時間ほど走って砂丘へ到着。

「ここでなにするの?」というような場所だったが

降りてのぼりだす。すると、低木の間を素早く走る生き物が・・・

カンガルーのような足(@_@)
すばしこく動くけれど大人数にとりかこまれ、ついに捕まってしまった!

あとで調べてみるとトビネズミという種類。
アメリカ大陸のほうでカンガルーネズミと呼ばれているのと同種類と理解した。
***
ツーリストゲルに戻った夕方

草原の中に整然とゲルがならんでいる

ドルショップとカラオケバーはあるが、風呂はない。コールドシャワーだけ。

↑上の写真右がゲルの中。
ツーリストゲルの見取り図は他日の日記に書いておりますのでまた(^^)

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1992年8月のモンゴルへ~呼和浩特からウランバートル到着

2020-08-12 12:43:53 | モンゴル
1992モンゴルの旅より。
当時添乗していた会社ではじめて催行されたモンゴルへの旅だった。日本からの直行便はなく中国で一泊が必要となる。中国へはよく行っていたので添乗依頼がきたのかもしれない。
まわりの添乗員さんが誰も訪れていないモンゴルへの旅ということで、日報に加え一生懸命アルバムをつくった。
そのアルバムのページからご紹介します。
まさに「草原の国」

社会主義から民主主義に転換してすぐのモンゴルへ。
**
全日空で北京へ飛び、故宮などを観光し、夕食後に内モンゴルのフフホトへのフライトに乗った。

フフホトに一泊して翌朝また空港へ。

フフホト空港の表記は「呼和浩特」の漢字表記と中華人民共和国の国旗がはためいている。
★モンゴル史を少し…
中国領内の内モンゴルと、独立国モンゴルである外モンゴルの二つの地域に分かれる。
清朝にはモンゴル全土が支配されていたが、1911年の辛亥革命で清朝が滅ぶと中華民国に対して独立戦争がはじまる。
当時のロシア帝国を後ろ盾に外モンゴルだけが大モンゴル国(モンゴル・ウルス)として独立したが、清朝時代から北京の政策でモンゴル人比率が低くなっていた内モンゴルは中華民国の支配下となった。1917年にロシア革命でロシア帝国が倒れると、中華民国が外モンゴルも支配すべく侵略。モンゴル人たちは新生ソ連の力を借りて(最初は白軍、後に赤軍)撃退するが、内モンゴルは独立国の地図に入れることができなかった。1939年日本が支配する満州国がモンゴル国との国境で領土紛争を激化させ、いわゆる「ノモンハン事件」が起きる。実際には完全に戦争。第二次大戦後も外モンゴルは引き続きソ連影響下の一応独立国(通貨トゥグルクはソビエト・ルーブルと完全等価固定され、ロシア文字表記が強制されていた)となり、内モンゴルは中華人民共和国になってからもその支配下に留められている。チベットと同じチベット仏教を信仰し似た歴史をたどってきたこともあり、モンゴル国時代には相互承認していた。


午前11:50ウランバートルに到着。
入国手続きは煩雑。

所持金US$800、一万円(ほんとにそれだけだったかな?)写真フィルム三本、カメラ、
※左の「神田太郎」は記入サンプル

こういう新聞コピーもお配りしたっけ。
当時、「社会主義ドミノ」と呼ばれた体制変革はヨーロッパだけの話ではなかった。
それぞれの国や民族が苦悩しながら選び取っていることを、人の気持ちの感じられる記事から知っていただきたいと思っている。

いちばん最初に訪れたのは「スフバートル広場」。
ソ連なら赤の広場、中国なら天安門広場にあたる場所。
以下のような建物が囲んでいる↓

横長の議会は50トゥグルク札に登場↓※いまはまったく違う建物になっている

注目すべきは議会の建物すぐまえにあるレーニン廟そっくりの赤い「スフバートル廟」。騎馬像もスフバートル。
※ダムディン・スフバートルは大モンゴル国時代に独立運動を率いていた軍事指導者。二十九歳で没したことでより英雄視されるようになったのかも。

当時はほとんどすべてのお札にスフバートルが画かれていた。
※モンゴルの通貨トゥグルクは当時200トゥグルク=1US$ぐらいだったが、その後木の葉のように下落していった。
スフバートルの遺体はレーニンのように遺体保存されていたが、2005年に仏教式に荼毘に付され、廟はなくなっている。
**
ウランバートルのみ建物のホテル※地方はすべてツーリスト・ゲル(遊牧民のテント)
○バヤンゴルホテル

社会主義時代の建物はどこでもよく似ている。
突然天気が豹変し、ぱらぱらと雹が降ってきた。

食事はとにかく羊肉が多い。
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カトマンドゥ旧市街と新旧王宮

2020-08-10 07:30:49 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ旧市街の中心にあるカーラ・バイラブ神像

破壊神シヴァの化身のひとつ。中世ネパールではこの像の前で罪人に白状させたのだそうな。
すぐちかくに旧王宮があり、正門で「ハヌマン・ドゥカ(門)」がある↓

↑左の赤い衣に包まれているのがヒンドゥ神話によく登場する猿の神ハヌマンの像。
「目から強い光線を放つので顏を赤く塗りこめてある」と説明してくれたガイドさんがあった。

かつての王宮は今は博物館。となりに異質な西欧建築がある。

ああ、イギリスがここでもやっちゃった・・・と思った。
植民地で崇拝されている宗教建築や王宮を西欧建築物に建て替えている。
それはけっして強制ではなく、ここネパールの場合にも王族自身が西欧建築を望んで、古来のネパール様式の建物を壊してこのコリント式列柱の宮殿を建てたのだが。

※この迎賓館・戴冠式の会場は1908年に完成。2015年の地震で大被害をうけたが2018年に修復された。中国新華社のニュースの写真がこちら⇒

国王の新宮殿は1886年、旧市街の外に建設されたナラヤンヒティ宮殿。
はじめてネパールを訪れた2004年にはほんとうに王様の住居で中へなど入れなかった。
ここも19世紀に建てられた当初は旧市街の建物と同じような西欧式の宮殿だった↓

1934年1月15日の大地震では産まれて間もない名前も付けられる前の王の娘二人が圧死した。
上の写真の中央列柱は地震の後に改修した際に付け加えられた。

1962年に新国王によって現在の建物に建て替えられた。
あからさまな西欧建築ではなく、ネパールの伝統的な建物を意識したデザインになっている。

2008年に王制が終わり、6月11日に王が退去すると、博物館として公開された。
小松も2010年に一度だけ内部を見学した。2001年の「あの」銃撃事件のあった建物はもう壊されている。
**
カトマンドゥ旧市街にもどろう。
街の名前の由来になったカスタマンダップ寺院は

一本の木からとられた木材で建設されたとされている。

周囲は遠来の物売りでごったがえす。

よくこんな荷物を担げるものだ

チベットへの山道・ジョムソン街道でも信じられない様な荷物を背負った人とたくさん行き会った。

今でも現役の水場・ヒティ。

↑この三重の塔は2015年の地震で完全に倒壊した。




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パシュパティナート

2020-08-07 22:41:31 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ郊外、ガンジスの支流バグマティ川にあるシヴァ神の古刹でヒンズー教徒の葬儀が行われる。

ガートとよばれる場所で焼かれ、聖なる川に流される。
インドでマハートマー・ガンディの焼かれたガートを訪れた
※墓ではなくガート。
ガートとは本来階段を意味する。
川の水位に関係なく灰を川に流すことができるのが階段なのである。

ヒンズー教徒は墓をつくらない。
焼かれたあと灰がおとされてゆくバグマティ川は、乾季には小さな流れでしかない。
対岸には我々のような異教徒も外国人も入場料を払って入ってくることができる。

物売りや観光客に写真を撮らせるサドゥー(修行者)↑右下のオレンジの衣の人。

お参りの人が買う花も、日本とはちがうが売っている。
野良牛もいる。なんせシヴァ神の乗り物が白い牛ナンディなので、ヒンドゥー教徒は牛を食べないだけでなく自由にさせている。

対岸にあるシヴァ神の寺への入口にでーんと座る牛。

うしろに見える門の上にシヴァ神が画かれている。
★「パシュパティ」というこの地の名前はシヴァの化身のひとつの名前で、動物たちの長というような意味なのだときいた

異教徒が入れない門の入口に立つ警備員さん。
向こうに巨大な黄金の牛の●玉が見える。

↑ヒンズー教徒しか入れない門の先にある金色の屋根が寺院。
敷地は広大で、考古学的調査によれば紀元前三世紀にはすでに寺院だったのではないかとされる。

敷地の中には「死を待つ人の家」と呼ばれる場所もある。
死期が近いと感じた人が自らここに移って生活をするのだが、浮世のしがらみを整理し・ハラをくくって死に向かう生活をしているうちに元気になって俗世にもどってゆく人もあるのだそうだ。
ああ、なんと健全な「死との向き合い方」なのだろう。
忌むべきものや避けるべきものとするのではなく、
懸命に生きた生活の延長線上に、自然にあるものとして死を感じている。

ヒンズー教徒は高価な墓をつくらないし戒名ももたない。
けれど、故人への想いを共有するために集まる行事はある。
人が死後に残すべきものはモノではなく想いであるべきだ。

想いとは、考え抜かれた言葉であり、
生あるうちはその言葉を裏付けるべく真摯にいきねばならなない。

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ネパールの学校を訪問すると

2020-08-05 21:17:26 | ネパール
2006年《手造の旅》ネパールより

観光地よりも、学校を訪れるとその国の事がよくわかる

何度もネパールの旅を手造りしていくうちに、学校を訪問することができないかと思い、
いつも案内してくださっていたガイドさんに相談すると、
「上の兄が校長をしています」と、渡りに船。
日本のようにややこしい手続きはほとんどなく、実現した。

こちら校長先生。

ネパールの義務教育学校は日本の小学校一年から中学二年まで。
ずいぶん年齢に幅がある。

授業をいくつか見学させてもらった後、
日本についての質疑応答タイムと称して、いちばん広い部屋に希望者を集めてもらうと…
瞳きらきら、熱気むんむん

我々の来訪をあらかじめ伝えてあったとのことで、
各自がメモしてあった質問を英語で話だす。
よくある質問は忘れてしまったが、ひとつだけ忘れられない質問があった。
「『おしん』はほんとうにあった話ですか?」

その時代を知る日本人はいまはもうほとんどいないけれど、いちばん説得力のありそうな年長世代の方に代表しておこたえいただいた。
「今の日本からは考えられないかもしれませんが、ああいった日本はほんとうにあったのですよ。ネパールもあなたたちがしっかり勉強して発展させてくださいね」
お答えいただいた方は戦後の貧しい時代から学校給食をつくる会社を経営してこられ、最近ではカンボジアに学校を寄付されている。
子供たちが貧富に左右されず学ぶ機会を与えられることは、その国がどんな社会体制をとっていようと絶対的に必要な政策である。

英語原稿をしっかり用意していた生徒があったり、プレゼント交換をしたり、英語ができることが仕事に直結する国では子供たちも実用的な言葉を学んでいる。



先生たちといっしょに記念撮影


せっかく受け入れてくださったので、皆でお金をだしあってパソコンを一台寄付してきた。

あれから十数年、あの時の子供たちはみな大人になっているだろう。
たとえ一日であっても、小学校の頃のこういう出来事は強く記憶にのこるもの。
突然訪問した日本人のことを覚えていたりするかしらん。
継続的な活動にできなかったことは心残りである。
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