旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

山寺へ

2015-03-20 16:54:57 | 国内
山形から仙台方向へ電車で十五分ほどで山寺駅に到着
だれに聞いても「山寺の階段はたいへん」と言う。

駅のホームから見上げるお堂は、岩山のいただきに見えて、あそこまでいくなら大変だろうなぁと思わせる。
山寺の正式な名前は「立石寺」だが、なるほど、岩が立っている(^^)


また、誰に聞いても「いいところですよ」と、言う。
やはり自分の足で、目で、確かめてみたいと思ってやってきた。

駅から五分ほど歩くと川が流れていて、そこに巨大な岩が見える。

「ははぁ、これが『対面岩』か」

この寺を開いた慈覚大師円仁と、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎がこの岩の上で出会い、仏道を広める根拠地とすることを認め、狩人をやめたとされる。狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される
※寺のホームページより。

土産物屋・荷物お預かり所、団体利用の食堂などがずらりと軒を連ねているが、今日は平日だから閑散としている。そのまま通り過ぎて寺の入口まで登る。入山料?三百円を払い。いよいよ石段本番!

朝方、山形の高層ホテルで目覚めた時には窓の外は霧だった。
博物館で「縄文の女神」を見ている時にも寒空だった。
電車を一時間遅らせて、木立の中から注ぐ陽が楽しめて幸運だ。

十分ほど登るとこの小堂がある中にはこわ~い顔の脱衣婆の石像
かつては、ここからが聖域となり服を着替えて登って行ったのでここに脱衣婆のお堂がつくられたそうだ。

このあたりから、こんな車輪の付いた卒塔婆をたくさん見かけるようになる

若くして亡くなった人の魂の為のもので、南無阿弥陀仏と唱えてまわすと、早く成仏できるのだそうだ。
残された人が悼む気持ちがそれぞれに宿っているのか。

駅から見えていた切り立った岩が目の前にそびえる。

ここからが階段本番か?
自然石を積んだ階段をまがっていくと、不意にきちんとした階段にであった
山門の中には鎌倉時代、運慶の弟子作と言われる仁王像が睨み下ろしている

ここから、途中に眺望の楽しめそうな横道がいくつかあったが、それは帰りに行くことにして、奥の院まで、寄り道をせずにのぼっていった。

まだまだ、まだまだ、と気を抜かずに登って行ったら…前庭に雪がいっぱいの御堂の前に出た。
「奥の院」と書かれている。あれ?もう着いちゃったんだ。


「残雪とよぶには多し奥の院」

階段は千と十五段と書かれていた。
気を引き締めて登ったせいかもしれないが、わりに簡単に到達出来た印象であります。

戻り道は、眺望が楽しめるルートへいってみよう。正面に見える開山堂には円仁の木像があるということだが、冬季のためか開いていない。

最も印象的に見えていた赤い小堂へ近づいてゆく。
経文が収められている場所で、この下に円仁の入定洞があるとのこと。
そう思ってみれば、この立ち上がった一本の岩から円仁が周囲を見守っているかのようである。
※こちらに⇒もう少し書きました


現在は通行止めになってしまった岩の小道の上に、かつて僧たちが修業していた祠が点在している。
凝灰岩はぼこぼこと穴があきやすく、こういった場所を利用できる事も、この場所が密教の修行地に選ばれた理由なのだろう。


開山堂向かって右手から、残雪を越えて降りてきた人がある。
この足場の悪いところをあがらないと、山寺一の絶景ポイントとされる五大堂には上がっていけない。



元の道に戻り、降りてゆく途中に、登りには気付かなかった風化が進んだ岩に刻まれた仏像に気付いた。
「伝・安然和尚像」と書かれている。調べてみると、慈覚大師円仁の弟子にあたる人物で、まさにこの山が開かれる時に同道していた人物のようだ。つまり西暦九世紀の人物。ぼろぼろになった岩が、平安時代初期という時代の遠さを感じさせる。

***
駅近くに降りてくる。列車の時間まで一時間ほどあるので、芭蕉記念館を訪れることにした。

※こちらに⇒もう少し書きました。











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