旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カルカソンヌの一日~晩秋の青空

2014-11-10 14:50:02 | フランス
《手造の旅》カルカソンヌからバルセロナへ、三日目。今日は終日カルカソンヌの街を楽しむ日。

雨音は止み、静かな朝のダイニングこのホテルは庭のすぐむこうが城壁という旧市街絶好の位置
朝9時、ホテルを出てすぐにサン・ナゼール教会のファサードがそびえている。もともとホテルのあった場所にはこの教会の司教館があった。それを1909年に現在のホテルとして開業したのだから近くてあたりまえ。

教会向かって右側は13世紀以前のロマネスク部分、左側がステンドグラスのバラ窓があるゴシック様式。内部にはいるとそのコントラストがはっきりわかるゴシック部分はカルカソンヌがフランス王支配下になってから、1269年にルイ9世が北方フランスの職人たちを呼び寄せて改築された。たしかにシャルトルに代表される大聖堂と同じ雰囲気が感じられる。

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カルカソンヌの旧市街にあるコンタル城へ入る、

1130年ごろの築城とされ、この姿は12世紀トランカヴェル家支配の時代をイメージして修復されている。
修復はされていても、当時この空間に三階建ての宮廷主要部分があったことは、ガイドさんに指摘されてはじめて気付く。壁の中ほどに残る石の出っ張りの位置に木製の床が張られていたのだ。
城内の部屋に、突然噴水があったりするが、これは当時街の中にあったものをここに展示しているだけ。
鮮やかな色が残るフレスコ画は、一説にはアラブ人(右側の丸い楯を持った人物)とキリスト教徒の戦いを描いたものとされている12世紀はイベリア半島でイスラム教徒から領土を再征服(レコンキスタ)するキリスト教徒の戦いがくりひろげられていた。その情景か、またはトランカヴェル家の始祖とされるベルナール・アトン・トランカヴェルが十字軍に参加して戦っているところだと推察されている。

城から直接町の城壁を歩く。

下にみえているのは、紀元後3世紀頃=ガロ・ローマン時代のものとされる城壁の土台
眼を城外へ転じると、はるかピレネー山脈がすでに雪をいただいている。明日はあの山の中の小国アンドラへ向かう。
 城外、眼下に丸く見える広場はもともと丸い張出要塞部分があった場所。
下の復元写真で、丘の上の城塞から下へ延びている城壁の先の丸い部分がそれ。

カルカソンヌというと、今では丘の上の城壁都市の方が有名だが、下の川沿いに新しい街が建設された事がわかる。
ゆっくり時間がある今日はその「下の街」を歩いてみようとおもう。
ポン・ビュ(古い橋)を渡る

遠くに見えていた下の街の教会けっこうすぐに到着。この塔にも登れると地元ガイドさんが言っていたが、月曜にはあいていなかった、残念

中心部の四角い広場
そのまままっすぐミディ運河まで至る18世紀に建設された運河は今は世界遺産になっている。トゥールーズからずっとカルカソンヌまで、運河と鉄道は並行していた。

お昼どきになったので、駅近くのタルミナスホテルで軽く食べることにした。
こういうリエットはさすがフランスという味しばし、ゆっくりしましょ
今晩はホテルDe la Citeでしっかり食べるので軽くしとかなきゃ

ゆっくり上の街のホテルまでもどってゆく城門をでたところで南仏の遊び「ペタンク」をやっていた

少し雲が出てきた背景が、より「上の町」を美しくみせている。

この美しさはしかし「昔のままよくのこっている」わけではない。
1838年にスタンダールがやってきた時の言葉。
「古いカルカソンヌ(「上の町」=シテを指す)は、新市街と隣り合わせの山の上にある。新市街の門を出ると、丘の上に旧市街が見えたが、初めは何が何だかわからなかった。どうやら廃墟と化した城塞らしい。」
その約半世紀後にヴィオレ・ル・デュックによって修復作業がされて、はじめて現在の様に世界遺産にも指定される町並みとなったのである。
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《手造の旅》カルカソンヌからトゥールーズ二日目

2014-11-09 13:21:06 | フランス
午後から雨の予報だが、午前九時はまだうす雲程度。空気は冷たいが風はない。日曜日の朝、まだ人出の少ない市場をあるいていく旬のキノコ!今回どこかでたべたいものだ

トゥールーズの大聖堂である●バジリカ・サン・セルナン教会が見えてきた。

教会の周囲には「こんなもの買う人いるの?」と思ってしまうガラクタ市

サン・セルナンとは、紀元後三世紀の初代トゥールーズ司教だった人物。本当の名前はサトゥルナンだがこのあたりの古いフランス語であるオック語ではサン・セルナンとなった。

彼はAD250年に神殿奉納で犠牲にされる荒れ狂う雄牛に引きまわされて殉教したとされる。その雄牛が走った通りフランス語で雄牛はbœufだが、スペイン語で牛はtoroだから、この地方ではその影響がある呼び名になっていたのだろう。下がオック語表記。

雄牛が最後に止まったところとされる場所につくられのがこの「雄牛の聖母マリア教会」。その塔が通りの先に見えている

近づいてファサードを見上げるサン・セルナンの遺体は最初はここに埋葬されていたが、五世紀頃に新たにバジリカ・サン・セルナンが建設されてそこに移された。

北西スペインのサンチャゴへ行くいちばん南の巡礼ルートにあたり、中世にはたくさんの巡礼がこの教会を訪れた。そのために巨大な修道院も併設されていたのだが、今残っているのはこの小さなアーチひとつだけ

聖堂の入口のロマネスク彫刻は11世紀末からのもの。図像それぞれが何を表しているのかは、解明されていない部分も多い。下の写真のものは、二人の人物がライオンの首のような仮面のようなものを持って、足を交差させている。足を交差させるのは十字架を意味すると推察できるが、その足の片方は靴を履き、もう片方は素足になっている。理由は分からない。


日曜日の午前中、教会の扉を開けるとパイプオルガンの重低音がからだを包む。フランス最大とも言われるロマネスク建築の中でこそ味わえる雰囲気。内部をもっと見学したいところだが、このミサに出会えたということで充分に価値があると思う。教会は美術的価値だけを見に来る場所ではないのだから。
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トゥールーズの中心、キャピトル広場

18世紀からの建物がまわりを取り巻いている。このあたりでは石材の代わりに地元の赤い土をつかったレンガで建物を建設した。だから、トゥールーズは「バラ色の街」も呼ばれるのだ。
正面の白い建物が市庁舎。この二階部分の八本の柱だけはカルカソンヌ近郊の赤大理石でできている。八本あるのは、当時の政府の八人の統治者を表しているのだとか。

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●ジャコバン修道院
1275年から92年にかけて建設。時代は少し後のゴシック建築時代。こちらの塔もサン・セルナン教会と似せてある。

13世紀、トゥールーズとカルカソンヌ周辺はローマ法王庁から異端と断じられたカタリ派の根城だった。
アルビジョア十字軍と呼ばれる討伐軍が差し向けられ、カタリ派領主を処断・処刑して一掃した後、カタリ派弾圧の最前線にたっていたドメニコ派の修道院であった。

18世紀末のフランス革命はここにも甚大な被害を与え、内容物はほとんどが失われてしまっているが、ここの見ものはその建築そのもの。入ってみあげて歓声があがる。

いちばん端のぶぶんにはアーチの集中する「椰子の木」とよばれる部分が見える。この写真、下に置かれた巨大な鏡で撮っています
がらんとした聖堂の中央に、13世紀のドメニコ派が輩出したトマス・アクイナスの墓もぽつんとおかれていた。

有料の回廊部に面して、フレスコ画の残るいわば「講義室」

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15世紀ごろから、トゥールーズは青い染料「パステル」によって繁栄したと読んでいた資料にあった。その取引で財を成した商人の館が川の近くにある 16世紀も後半になると、もっと安い青色の染料インディゴが新大陸からはいってきて「パステル」はすたれてしまった。※この二つのどちらを日本語で「藍」と訳してよいのか?あるいは、「藍」というのは日本のもので同じではないのか? 翻訳というのはすべての学問のはじまりだというのはほんとですね。
現在でも復刻させて売っているところがなくはない。日曜日で閉まってなければ買いたかったひと品。


ピレネーから流れ出して大西洋にいたるガロンヌ川。そこにかかるポン・ヌフ(新しい橋)は、16世紀フランソワ一世の時代に建設されたもの。なんども洪水によって流された末、この橋が残った。

川の対岸左岸は、右岸よりも8メートルも低く、水害を受けやすい地域だった。橋のアーチを小さくして、高さの違う両岸をうまくつないでいる。

旧市街にはところどころに古い邸宅が残されている。ファミリーの力を誇示するために建てられた塔も時々のこっている

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●オーギュスティン美術館・博物館
ロマネスクに興味がある人ならトゥールーズに来たら必見!ここにはもう破壊されて存在しなくなってしまった建物から救出されてきたたくさんのロマネスク彫刻が収蔵されている。ルネサンスの様な華美さは全くないが、表現力豊かで見飽きない
★これらについてはまた別のところに書きます。
2014年5月にトゥールーズのアートフェスティバルの一環として、こんな部屋の装飾になっていた。
⇒これについては、こちらに書きました。

「2011年の大震災の時には、海外にいる日本人もずいぶん心配していたのです。この部屋でチャリティーコンサートをひらき、日本へエールをおくったのです」そうきかされると、美術館のただのひと部屋でなく感じられてくる。

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昼食のレストラン
サラダ
定番のカスレとこの時期らしいキノコのソテーカスレというのは、本来はこの種の器の名前だが、今はしろいんげんや各種肉を煮込んだ料理という認識になっている デザートにはコーヒーとデザートの盛り合わせ「カフェ・グルマン」

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トゥールーズから一時間強で、城塞都市カルカソンヌが見えてきたフランスでモンサンミッシェルに次いで観光客が多いというこの町。たしかに写真映えがする

16時すぎに城壁内のホテルDe la Citeにチェックイン。すぐに城壁とその外へのウォーキングへ出発。
11月前半のこの時期は17時半ぐらいで夕暮れになるので、帰路には夜景も楽しめる。陽の長い夏では日暮前に眠たくなってしまうから。⇒こちらにその写真を載せました。

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トゥールーズ到着

2014-11-08 13:01:43 | フランス
JL045便にて10:50に羽田を出発。パリを経由してトゥールーズに到着したのは19:30だった。空港ターミナルにはいってすぐなんだかきれいな空間だ。

※南西フランスのトゥールーズは、パッケージツアーのいわゆる「南仏モノ」ではあまりコースにはいってこない。小松も2007年以来の来訪になる。しかし、その2007年の印象が良かったことが、今回の《手造の旅》カルカソンヌからバルセロナへを企画する材料のひとつになったのだった。

旧市街の外壁だった通りに近いプルマンホテルに到着。ここのロビーもしゃれてる客室の廊下もこんな

お迎えいただいた在住日本人ガイドさんによれば、今日は中心部のキャピトル広場で政治がらみのデモがあって、まだおちつかない様子なのだとか。確かに道路にモノが散乱していたりする。デモへの参加を阻止しようと地下鉄も止められたので道もずいぶん混んでいたようだ。このあたりのホテルでよかった。

テレビをつけると、ベルリンの壁の番組をやっていた。そうか、明日はベルリンの壁が意味をなくした運命の東ドイツの記者会見の日からちょうど25年目にあたるのだおもいかえせば1989年は個人的にも感慨深い年だった。小松がいわゆる「東側」を訪れたただ唯一の機会は、この年の10月、つまり、ベルリンの壁崩壊の一か月前の事。東ベルリンを経由してブルガリアの地方都市ブラゴエブラドへ向かったのであった。
個人的な記憶が、大きな歴史とリンクしているのはなんだかおもしろい。
余談でした。
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北海道のガラスのピラミッドへ~晩秋のモエレ公園

2014-11-01 11:36:23 | 国内
長く札幌にお住まいの方に「モエレ公園へ行きたい」と言うと、「あの辺りは泥炭地帯で地盤がわるくて、昔はゴミ溜めになっていたのよ」とおっしゃる。

小松にはイサム・ノグチが生涯の最後に設計した現代庭園というイメージなのだが、そうか、もともとはそんな場所だったのか。

三十分ほど車で走ると、晩秋の青空が広がる午前十一時、遠くに人工の丘が見えてきた。ゴミ溜めだったなんてまったく思えない。

駐車場から歩き出す、まずは高さ62m、人工のモエレ山。古墳のようだ。
大理石の階段がループしながら頂上へ誘う頂上から、公園をU字型に囲むように流れている伏籠川(ふしこかわ)が見え、ガラスのピラミッドがあった。札幌市街まで見晴らせる

下りは階段をつかう。周囲の同じようなモニュメントとリンクしているのが、視覚として感じられる

あそこにもうひとつ古墳のようなメキシコのピラミッドのような、階段でいっぱいの斜面がみえる。今度はそちらへ。

大理石の白い彫刻が芝生に映えている



このモエレ公園のシンボルのようになっているのはガラスノピラミッド。

パリのルーブルみたいな雰囲気が感じられる
びっくりするのは、この地下に大量の雪を貯蔵して、夏の間の冷房に利用しているということ。

内部の三階部分にイサム・ノグチの記念館があり、この公園造成の歴史もわかりやすく展示している。
イサム・ノグチは1988年3月に予定地を訪れ、公園のマスタープランを完成させたが、同じ年の12月ニューヨークで亡くなった。
●「あとはよろしく」と言っていたそうである。
イサム・ノグチは当時八三歳。モエレ公園のプランは十年では完成しない。自分自身は見ることが出来ない未来を託した言葉だった。
モエレ公園のサイト、こちらからイサム・ノグチのかかわりをお読みいただけます。
ここがグランド・オープンしたのは2005年になった。
この美しい視覚は、イサム・ノグチが我々に遺したものなのだ。



**このピラミッドの一階部分続きに、訪れる価値のあるレストランがあった。
①トウモロコシのアイスに温かいポタージュスープをかけて
②さんまのマリネと大根、ナスタチウムの葉っぱを挟んであります
③ハーブサラダ~バターソースをかけて、底にはヨーグルトが敷いてあります
④ムール貝とつぶ貝、稲穂も素揚げしてあってたべられます

⑤ソイ(魚の名前)の炭火焼、アサリのソースかけ
⑥トマトのブランマンジェとバジルのシャーベット
⑦牛頬肉の赤ワインソース煮、黄玉葱、マイタケ、ポテト添

マイタケがとても薫り高くて、はっとさせられた。
⑧ハーブのアイスとホワイトチョコのソース、フェンネル添
⑨もひとつデザート!

駐車場への道

三時間ほどの滞在だったが、自分の中でのモエレ公園は、この風景としてずっと記憶されていく。





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