旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

羽田からパリ経由チュニス到着、すぐにカルタゴ遺跡へ

2019-03-09 11:11:11 | チュニジア
空港の建物を出ると青空に赤いチュニジア国旗がひるがえっていた

「トルコの国旗と間違われるけど、こちらの方がずっと先なんだ」と、お会いして早々ガイドのショクリさんが言った。

からっとした穏やかな風がふいている。
巨大なコリント式の柱頭は↓ホンモノかしらん?

**
羽田を24時少し前に出発し夜明け前に冷たい雨の降るパリに到着。06:45のチュニス行が飛び立つ頃、ようやく空に朝の気配↓

うとうとして目覚めると、すっかり昼になった空の下、海岸線が見えた↓

飛行ルートから考えると、フランス領コルシカ島かイタリア領サルデーニャ島だろう。
朝食はこんな↓

↓マンゴースムージーにシリアルを入れていただきます

三時間ほどで降下体制にはいる。チュニスの北側に位置する岬が見える↓

↓着陸

遠くに印象的な山が見えた↓

何度も地図を見てシュミレーションしていたが、こういう山のたたずまいは実際に訪れてはじめて感じられること
※あとからガイドのシュクリさんがカルタゴ時代から信仰の山だったと教えてくれた

空港から市内とは逆方向に位置するカルタゴの遺跡を目指す。
↓正面に教会が見えてきた↓

「セント・ルイス教会だよ」とガイドさん
あ、フランス王ルイ九世のことか。
十字軍遠征の時チュニスで病没したのだった。


※こんな大きな教会が必要なほど今のチュニジアにキリスト教徒はいない。フランス領だった時代(1881-1956)だからこそ建設された。「今は教会としては使っていませんよ。キリスト教徒は、千人にひとりぐらいかな」とシュクリさん

すぐに教会の足元に到着。


そこが、カルタゴ発祥の地にして終焉の地、
★「ビュルサの丘」だった。
「ビュルサ」とは牛の皮を意味する。共同統治者だった兄に夫を殺されたフェニキアの王女エリッサは新天地を探して航海をし、現在のチュニジアにたどりついた。この地の支配者はエリッサに「一枚の牛の皮が覆えるだけの土地なら与えてもよい」と言った。
そこでエリッサは牛の皮を細く長く切り、それで城塞が建設できるだけの土地を囲った。カルタゴとはフェニキア語のカルト(街)ハダシュ(新しい)という言葉からきている。
紀元前814年のこととされている。

カルタゴの滅亡もまたこの丘だった。
紀元前146年。第三次ポエニ戦争の最終局面で、追い詰められた最後のカルタゴの人がこの丘の要塞に篭り、火を放って自害したと伝えられている。
***
カルタゴ遺跡に入る。
広大な湾に面したすばらしい立地だ↓

↓湾を挟んで見えている山は空港から見えていた山


「バール・ハモンの神殿があの山にあったんだ」とシュクリさん。
古代のカルタゴ人も我々も、山を見ておなじように感じていたんだ。

第三次ポエニ戦争でローマに破壊されつくしたこの土地にかつてのカルタゴ都市の面影を求めるのはとても難しい。
紀元前一世紀にカエサルの決定で新たなローマ都市が建設されたので、そのローマ遺跡の方がはるかに大きい。
とは言っても、我々ここを訪れる観光客は「カルタゴの栄光」なるものを少しでも感じたいと思う。
↓下の写真で、四角い構造物の間に小さく埋もれている三角屋根がわかるだろうか

↑これはカルタゴの墓地のひとつなのだという。
↓こちらはカルタゴ時代の居住エリア↓

↓手前の細い柱で囲われた区画がカルタゴ時代の住居跡なのだそうだ。
「どうしてローマ時代のものでないとわかるのですか?」と質問。
使われている石がローマのものは石灰岩で、カルタゴのものは砂岩なのだそうだ。それもカップ・ボン(ボン岬)の先端にある石切り場から運ばれたモノが使われているので判別できると教えてくれた。

ビュルサの丘にあった要塞などの構造物は、ローマ人によってことごとく壊され、それを埋めて土地を平らにし、ローマの街を上に築いたとされる。今はそのローマの街も遺跡となって地中海の陽光をあびている。


次はカルタゴの港へ行こう





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