旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ミラノはもっとおもしろい2017②聖アンブロージョ教会

2017-11-26 16:46:01 | イタリア
ミラノ地下鉄に乗って
⇒※地下鉄の写真こちらにもう少し載せました

幸運なことに予約のとれたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の見学に、サンタ・マリア・グラツィエ教会へやってきた↓

壁画が描かれているのは本堂ではない。上の写真に写っている八角形のドームは教会の正面まで行くと見えなくなる。
だから、本堂には入らずに「最後の晩餐」だけ見て去っていく人は多い。
でも実は、離れた場所からこうしてみるブラマンテ設計のドームはとても美しい。
内部に入って、ルネサンスの理念を実行するブラマンテらしい幾何学的なデザインを見上げる↓


※「最後の晩餐」は、最近写真撮影がOKになった。
**
本日、午後ひとつめの教会は、ミラノの守護聖人・聖アンブロジウスの遺体を安置した、同名の教会↓

左右に二つの塔があるのを何気なく撮影していたが、後から教会の歴史を調べてみて理由がわかった。
敷設されていた修道院の僧たちと、教会の運営をする参事会の対立があって二本になったのだそうだ。

入り口の門を入ると前庭回廊になっている。そこから教会の入り口を見上げる↓

↑右の塔は9世紀、左の塔は1128-44頃と、「イタリア旅行協会公式ガイドブック」に記載。
※この本は写真一枚使っていないけれど、歴史的な事が最も詳しく書かれたガイドブックです

早くも西陽をあびはじめたファサードの装飾が輝く。中央の十字架下に美しい緑色の焼き物をはめこんで装飾にしている↓


周囲の植物文様、
そして、回廊の柱頭に刻まれた彫刻群が、ロマネスクの魅力を存分に体現している↓


★聖アンブロジウス教会の起源は四世紀にさかのぼる
西暦386年のある日、ミラノ大司教のアンブロジウスは夢を見た。当時ミラノの守護聖人だった聖ジェルバジオとプロタシウスがあらわれて、彼らの遺骸が埋められている場所を示したのである。
当時のミラノ市城壁の外に位置した墓地の一角から、夢のとおりに二人の遺骸が発見され、ここに彼らのための聖堂が建てられることになった。
アンブロジウス自身も397年の没後、この二人と同じ棺に葬られている。地下聖堂のガラスの棺桶の中に彼ら三人が眠っているを、間近に見ることができる↓


紀元後四世紀末のアンブロジウスが実際にどんな顔をしていたのか?
ここには、たぶん本人を見ていた人が製作したのだろうと思われるモザイク画が残されている。
教会を入って右奥手の宝物室、そこからかつては教会と離れて建っていたサン・ヴィットーレ・チェル・ドーロ礼拝堂となる↓
入場券を買って入る↓

アンブロージョの弟サティルスが西暦378年に亡くなった時、兄が弟を埋葬するのに選んだのが、二世紀ダマスカスで殉教したローマ兵士でキリスト教徒の聖ビクトール(ヴィットーレ)の聖遺物が収められていた礼拝堂だった。
見上げた丸いドームいっぱいに↓金のモザイク

聖アンブロージョの姿は横壁のところに全身像で描かれている↓
実際に小松が撮影した写真では正面からにならないので、ここでは説明看板に載せられていた三聖人の姿をみてください↓

左右の二人もリアリティがあるが、中央の髭の濃いアンブロジウスの姿は特に優れている。
優秀なモザイク製作者が実際のモデルを見て製作したと信じるに十分の出来栄えではないか。
紀元後四世紀の人物の雰囲気がありありと伝わってくる。

このモザイク装飾が行われたのは、弟を埋葬したタイミングでなのか、そのあとなのか?(小松の考えでは、アンブロジウス本人の没後すぐなのではないかと思う。なぜなら、前出の二人の先輩聖人ジェルバジオとプロタシウスとならべて描かれているのだから、本人が生きていたらこんな配置を良しとしなかったのではないだろうか)

アンブロジウスの没後もこの教会はどんどん大きくなり、変化をとげていった。
784年にはベネディクト派の修道院が併設
大司教AngilbertoⅡ(位824-859)の時にオリジナルが製作されたという後陣を覆う金色のモザイク↓

※今回はミサが行われていてしっかり見ることができなかった
手前の天蓋は10~11世紀ごろのもので彫刻ではなくストゥッコだそうだ↓


大司教Ansperto(位869-881)の時に、教会入口手前のアトリウム(前庭回廊)が建設↓
最初の中庭の彫刻はその時代のものだったのか。ロマネスクの美しさと面白さ爆発してます↓



教会の身廊部分にある説教壇も見事↓

説教壇自体は1130から1143年に作られ、1196年に天井が一部崩落した時ダメージをうけ、それを修復したGulielmo da Pomoが修復した際のサインをのこしている。あとから写真を見なおして、「あ、これだ」と、発見しました↓

※この説教壇の彫刻についてももっと知りたいのだけれど、また次回(いつ?)

下に隠れている石棺は「スティリコーネ」と呼ばれる四世紀末から五世紀のものとされる↓この呼び名は19世紀になってからつけられたそうだが、それは、テオドシウス、ホノリウス両皇帝の時代に仕えていたヴァンダル族の将軍の名前なのだそうだ↓描かれているのは新・旧の聖書物語↓


その近くにある柱の上の「青銅の蛇」はなにもの?

聖書の世界で「青銅の蛇」というと、モーゼが毒蛇に噛まれた人を癒すためにつくって旗竿の先に掲げた話を思い出す。
伝説では「これがその青銅の蛇」とされているけれど、実際にはビザンチン(東ローマ)に由来する別の構造物に付属していたと考えられている。

↑11世紀の改築の際にこの柱の上に設置される。
「身廊の逆側には対比として青銅の十字架がある」との記述に後から気付いて、写真をみなおすと、あ!確かに。
無意識に撮影していたのか。
ううむ、これも次回もういちど確認してこよう(いつ?)
**
前出の黄金のモザイクドームがある宝物館には、古代ローマ時代のものから
16世紀に(後にミラノの守護聖人となる)カルロ・ボロメオが暗殺未遂に遭った時に着ていた銃弾の穴の開いた衣も収蔵されていた↓

※これについての話はこちらから

まだまだ見所はあったが、また次回に掘り下げようとおもいます



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