2003年ニュージーランドの旅より
クライストチャーチからちょっとした山を越えると
リトルトン港。
ここは1910年にロバート・スコットが南極へ向けて出発した港。
1913年に無言の帰還をした港。
クライストチャーチ市内の「カンタベリー博物館」にはスコット隊の遺品が数多く納められている。
大英帝国の期待を背負って出発。
当時最新のスノーモービルを持っていったが…
これ↑はすぐに壊れてしまった。
馬も寒さと食糧不足ですべて死んで、極点への三百キロには人がそりを引いて行くことになってしまった。
この時、アムンゼンはすでに南極点からの帰路についていたのだがそれを知る術はなかった。
↑アムンゼンとノルウェー国旗。
↑いちばん下に南極点↑左の実践ルートがスコット隊のルート。右の点線ルートがアムンゼン隊。
一直線に極点到達を目的として行動したアムンゼンに対し、スコットの英国は南極調査隊としてやってきて、極点への到達は当初二次的な目的だった。
それが証拠に、スコットと共に亡くなったエドワード・ウィルソンが最期まで捨てなかった岩石標本が十五キロ以上も残されていた↑これは、そのひとつ
1912年1月17日、スコットが到着した南極点にはアムンゼンが残していったテントと手紙があった。
そこで新たに計測して失意の記念写真を撮ったスコット隊五人。
↑写真に写っている旗そのものが展示されている↑
「極点へのラスト・ランのために」とハバナのSOL社から贈られた葉巻は使われたのだろうか
帰路のスコット隊は食糧デポのところまであと一歩のところまで戻ったが全員が3月17日までに遭難死した。
スコットの日記のコピー↑
他にも十通以上の遺書が残され、妻には「良い人がいたら再婚するように」と書かれていた。
六か月後、春になって捜索隊が出動し、彼らのテントを見つけた。
その場所につくられた大きな十字架のケルン。
近くの公園にあるスコットの像
この作品は、彫刻家だった妻のキャサリンによって1917年に公開された。
クライストチャーチからちょっとした山を越えると
リトルトン港。
ここは1910年にロバート・スコットが南極へ向けて出発した港。
1913年に無言の帰還をした港。
クライストチャーチ市内の「カンタベリー博物館」にはスコット隊の遺品が数多く納められている。
大英帝国の期待を背負って出発。
当時最新のスノーモービルを持っていったが…
これ↑はすぐに壊れてしまった。
馬も寒さと食糧不足ですべて死んで、極点への三百キロには人がそりを引いて行くことになってしまった。
この時、アムンゼンはすでに南極点からの帰路についていたのだがそれを知る術はなかった。
↑アムンゼンとノルウェー国旗。
↑いちばん下に南極点↑左の実践ルートがスコット隊のルート。右の点線ルートがアムンゼン隊。
一直線に極点到達を目的として行動したアムンゼンに対し、スコットの英国は南極調査隊としてやってきて、極点への到達は当初二次的な目的だった。
それが証拠に、スコットと共に亡くなったエドワード・ウィルソンが最期まで捨てなかった岩石標本が十五キロ以上も残されていた↑これは、そのひとつ
1912年1月17日、スコットが到着した南極点にはアムンゼンが残していったテントと手紙があった。
そこで新たに計測して失意の記念写真を撮ったスコット隊五人。
↑写真に写っている旗そのものが展示されている↑
「極点へのラスト・ランのために」とハバナのSOL社から贈られた葉巻は使われたのだろうか
帰路のスコット隊は食糧デポのところまであと一歩のところまで戻ったが全員が3月17日までに遭難死した。
スコットの日記のコピー↑
他にも十通以上の遺書が残され、妻には「良い人がいたら再婚するように」と書かれていた。
六か月後、春になって捜索隊が出動し、彼らのテントを見つけた。
その場所につくられた大きな十字架のケルン。
近くの公園にあるスコットの像
この作品は、彫刻家だった妻のキャサリンによって1917年に公開された。