《手造の旅》クロアチアとアドリア海 四日目 午後三時前、クロアチア最大の港町リエカが見えてきた。町の上に黒くスモッグがたなびいている
港へはいってゆく途中にネオゴシックの「ロレートの聖母教会」
こちらは今日は外観だけ。地元のガイドさんとお会いして、海抜百三十メートルほどのトゥルサット地区へのぼってゆく。
**リエカには伝説がある。
聖母マリアがキリストを産んだナザレの家が、1291年5月1日天使によって運ばれてきた。 町の人々は驚き日々礼拝していたが、三年半後にその家は、再びイタリアのロレートに飛んでいってしまった。
「なぜ?」と悲しんだ人々は、家のあった場所を覆うように教会を建てた。それがこのトゥルサット教会
この外観は17世にバロックで拡張されたもの、内部に14世紀ごろの古い教会部分を内包しているそれはこの主祭壇がある鉄格子の向こうの部屋
この部屋のかたちは、その聖母マリアの家と同じになっていそうな。祭壇に置かれている絵は、十二使徒のひとり聖ルカが描いたとされている
1367年に法王ウルバヌス5世が下賜したと伝えられている。
キリスト教徒にとって重要なこの場所に葬られたいと願う人々は多い。 地元ガイドさんに説明していただいて興味深かったのはこの小さな墓石。ペトリ・クルチェックという人物は、オスマントルコとの戦争で亡くなった。遺体はトルコ側にあったが、ペトリの妹はその首だけを買い取り故郷に戻す。生前兄が信心していたこの教会に葬ったのである。 葬られているのは首だけなので墓石は小さかったのだった。 ペトリは生前、下の港から丘の上のこの教会へ上る階段を建設したことで知られている。
教会の外には、ひざまづくローマ法王の銅像があった⇒ おお、このお姿はあのヨハネ・パウル二世
彼は亡くなる二年前2003年にここを訪れていた。 クロアチア滞在中ずっとこの教会付属の修道院に宿泊していたのだった。滞在中ずっとそばにいた彫刻家が製作した銅像は、法王の死後に製作された銅像のなかで最も早いものだったそうである。
祈るヨハネ・パウロ二世の写真が、となりの修道院回廊に飾られていた歪んでしまった痛々しい背中から祈りが伝わってくる。この時期のヨハネ・パウロ二世はパーキンソン病が進行し、歩くこともままならなかったはずなのに、ここまでやっていたのか。 「聖母ゆかりのもっとも古いこの地を訪れるという夢がかなった」「私が居る時も、居なくなっても、トルサットの聖母を祈ってください」ここは滞在した際の言葉がいくつも添えられていた。 クロアチアでの訪問は五か所にもなったが、宿泊地はリエカだけ。ここから専用のヘリで往復したのだそうだ。
「タイタニック号ゆかりの、ちょっとおもしろいものを見せてあげる」 地元ガイドのロミーナさん、小松が話にくいついてきたのを知ってとっておきをひとつ教えてくれた。それは、この奉納品の部屋にある一枚の絵
リエカは第一次大戦前にはヨーロッパでも十本の指に入る港だったので、船に関連する奉納は多い。 アメリカへの定期航路もあった。
★1912年、氷山にぶつかったタイタニック号の救難信号を受信したのは、ニューヨークから地中海に向かっていたカルパチア号だった。イギリス船籍だったが、乗組員はクロアチア人が多かった。七百名以上を救出したのち、船員のひとりが救命具のひとつをリエカに奉納した。彼はその後アメリカへ移民し、さらにアルゼンチンへ渡った。半世紀以上の後、晩年を迎えた船員は、若き日に遭遇したタイタニック号の出来事をたどり、その時の絵をニューヨークタイムズの記事と共に故郷リエカのトルサット教会に奉納した。上に載せた二枚の写真のうちあとのものにその絵が写っている。
絵は誰が描いたのかわからない。本人がここへやってきたのか、代理にだれかが納めたのかもわからない。ガイドのロミーナさんにこの話をしてくれた修道僧も、「昔の話」としてきいた事なのである。
***
トゥルサット教会のすぐ上に古いTRSAT CASTLE トゥルサット城がある 「市内よりもこっちに時間をもっととったほうがよいわよ」と、ロミーナさんが案内してくれる。港を狙えるようにテラスから大砲
そして、リエカの市内を流れる小さな川が光っている。「これがイタリアとユーゴスラビアの国境だったのよ」 え?こんな小さな川が?
第一次対戦に勝利したイタリアは、敗戦国オーストリアが支配していたアドリア海北岸をイタリアに併合するように求めた。しかし特に重要な港だった地区は英仏が認めず、リエカは共同管理地域となっていた。 この状況にイタリアの小説家・政治家・軍人であったダヌンツィオは、私兵二千と共にリエカを実力で占拠してしまった。この支配は二年ほどしか続かなかったが、実質イタリア領となったリエカは、その外にひろがるユーゴスラビア王国との国境をこの小さな川と決めたのである。
城はたいして大きくない。中世風の円形塔の横に、あきらかに後からつくらせたギリシャ神殿風の建物がある。実はここは19世紀の、ある人物の墓所だった。
●Laval Nugent ラヴァル・ヌゲント は、アイルランド生まれのオーストリア貴族、三十歳で陸軍大佐になり、ナポレオンとの戦いで名をあげた人物。1815年にはフランスからアドリア海沿岸部ダルマツィア地方を開放するのに戦功があった。妻はこの地の有力家の人物で、リエカ港を見下ろすこの城を買い取り、古代の発掘物をコレクションしていた。このギリシャ神殿風の建物は、彼の古代文明コレクションを収蔵する場所であり、彼の墓所としてつくられたのである。
この城のある場所は、古代先住民族イリリア人の城塞トルサットがあったとされる。ローマ人がその後利用し、統治者の変遷にともないいくつかのファミリーの手を経て、名家フランコパン家のものだった。フランコパン家はダルマツィア文化の大きなパトロンだったが、1671年に「陰謀」によってお家断絶となった。ラヴァルの生きた18世紀末から19世紀のはじめにかけては、すでに荒廃した古城だったようである。
ラヴァル・ヌゲントは1862年に没し、妻やその一族たちと葬られていた。しかし、社会主義ユーゴスラヴィアはこういった貴族の財産をそのままにはしておかない。遺体はこの神殿のような墓所から取り除かれ、ここはなんとレストランとして使われていたのだそうだ。
ドーリア式の柱の間は施錠されていて、中はがらんとしている ラヴァル・ヌゲントの集めた古代からのコレクションはどこへいってしまったんだろう・・・と思っていたら、城の入口のところにこんな張り紙がしてあった
そうか、今でもラヴァルのコレクションは町のどこかでちゃんと管理されていたのか。この場所に彼のコレクションを展示した小さな博物館が開館したら、きっと彼も喜んでくれるだろうに。
***バスに戻る途中、トゥルサット教会付きのフランチェスコ会の修道士たちが集まっているのにいきあったみかけない東洋人のグループに向こうも笑顔をみせてくれているので・・・「ちょっと写真でもとりませんか?」と話しかけると、こころよくOKしてくれた。「はーい、いきますよ~」と声かけたところで、一匹のにゃんこがゆうゆうと前を横切って・・・
****今回リエカを見学地に入れたのには、クロアチアの100クーナ札が関係している。ここに描かれている教会がリエカにあるのだ。聖ヴィード大聖堂はバロックだが古代の円形教会の雰囲気を模しているようにみえる。どこの国でもお札に載せる建物はそれだけの価値をもっているものの筈。
港近くの旧市街を歩きながら、ガイドのロミーナさんに「100クーナが見られますね」と水を向けたのだが、「??」とという反応。え?「ほら、この教会ですよね?」と100クーナ札を見せると、びっくりしたように笑い出した。そうか、彼女、知らなかったんだ。 「いつもユーロばっかり使ってるから」とロミーナさんの照れ隠しに、二人で大笑い
でも、よく考えると、日本人でも同じ。日本の千円札で富士山の前にある湖は何湖か?一万円札の裏の鳳凰像はどこにあるか、ご存知ですか?
教会は夕陽がファサードを照らして美しい
リエカは現代までも港町として栄えているので町の中もずいぶん新しくなってしまっているが、ちゃんと案内してもらえれば古代の門もこんな風にのこされてる 路地裏にはフォロのなごりも
かつて城壁だっただろう場所には近代に建設された塔門
リエカを反映させた二人のハプスブルグ家の皇帝が刻まれている。 信号待ちをしている時に、こんなシールが貼られているのをみつけた。これって誰?何の意味なのでしょう?⇒
「この人は今の首相だけれど、今週末に選挙できっと負けるから『ゲーム・オーバー』なのよ」とのこと。今回の選挙の争点はシリアからの移民をクロアチアを通すかどうか、が、大きいとか。
★バスの待つ川のそばに出て、さっきまでいた丘の上の城塞を見上げる。あらためて、ここがイタリアとユーゴスラヴィア王国の国境だった時代があったことを考えてみる。
今日宿泊のプリトヴィッチェ国立公園は内陸だが、夕暮れるアドリア海のクロアチア側海岸線は島々と入り江がいりくんでつづいてゆく