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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

チャングナラヤン(その1)~参道から本堂へ

2020-06-09 17:21:48 | ネパール
2004-2010«手造の旅»ネパールより
4世紀リッチャビ王朝から現代まで続く寺院

カトマンドゥ盆地に点在する世界遺産の街のなかで、チャングナラヤンはちょっと辺鄙な場所にある。

2004年はじめて訪れた朝、盆地の底は深い霧におおわれていた。

カトマンズ盆地は標高1300メートルほどに位置しているが、チャング村はその少し上に位置する。

盆地を囲むリムの上に細長く村が続く、リムにあがっていくにつれナラヤン神(ヴィシュヌ神の化身のひとつ)の寺院がちいさく見えてくる。

村の入り口広場に車を止めて、

入場料を払って門をくぐる。「昔からそのまま」に見えるけれど、観光地としてちゃんと整備されているのだ。

その証拠に、古そうに見える石畳にもちゃんとマンホールがある。

寺に続くゆるい坂の両側は昔ながらの煉瓦の家々

トウモロコシのようなものが干してある

世界遺産に指定され、観光地としてインフラ整備がされても、人々の生活は昔とそれほど変わっていない。
尾根の様な立地だがヒティ(水場)があり、そこは現役の洗濯場である。

日本の協力で修復された昔ながらの休憩所


ネパールはどこへ行っても木彫が見事

金属工芸の伝統もある。仏具につかう真鍮の鈴が良い音色で売られていた

村の中心になるナラヤン神の寺への階段

ここをのぼりきると

青空に映える二層の屋根。ヒンズー教の寺だが仏教寺院のよう。
実際にネパールの人は仏教徒がヒンズーの寺へお参りすることもめずらしくない。

現在の本堂は18世紀はじめ1702年の再建と推察されているが、周囲の石柱や石の神像は5世紀から7世紀のものもある。

ここがネパール最古の寺院では?と推察されている所以である。
冒頭写真のひざまづいて手を合わせているガルーダも7世紀以前のものかとされる。
ヨーロッパとは違う美意識だが、実に美しいカタチをしているではないか。

本堂の四方に神獣が守る↑翼のある馬?ペガサスみたいだが、「シャラブハ」というヒンズー神話に出てくるヌエのような動物と解説しているものもあった。

こちらはヨーロッパでよく登場するグリフォン、ですよね。
↓この石のゾウが未完成なのは

石工の夢の中にゾウがでてきて「痛いからもうこのぐらいで彫らないで」と言ったのだとか((笑)ちょっと間違ってききとったかもしれない現地の人の話)

チャングナラヤンは辺鄙なところにある小さな村だがハッとさせられるネパールらしい美しさに満ちている。
その2に続く



:::続く



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ボダナート~ネパールでいちばん大きな仏塔とその伝説

2020-06-06 07:09:21 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより
路地の向こうに見上げる仏塔が↓

高さは36メートルにもなる。

チベット仏教寺院では五色のタルチョがひるがえっているのがよくみられる。
五色は「青=空、白=風、赤=火、緑=水、黄=土」の五大要素をあらわす。

よく見るとそれぞれに経文が書かれていてる。

今もチベットからたくさんの僧侶がお参りにやってくる。

ここはチベットからカトマンドゥへの通商ルートにあたっている。
中国のチベット弾圧が強まった折にのがれてきた住民がこの仏塔の周囲地域にたくさん住みついて、大小五十ものゴンパ(チベット仏教の寺)があるのだそうだ。
この仏塔は巨大な曼荼羅の中心に位置している

周囲の寺に入ると巨大なマニ車がまわっている↓


※動画をこちらに載せました

見上げるような仏像下にはダライラマ14世の写真

寺の二階テラスから

仏塔の全貌が見える



人々は右回りに仏塔をまわる

まわりの寺院に群がる人々。何をもらっているの?

マリーゴールドの黄色い聖水だ



仏塔の中段まであがり振り返ると、塀で囲われた場所に板がずらりと敷かれている↓

よく見ると、五体投地で祈りを捧げているのがわかった。
敬虔なチベット仏教とは五体投地をして進んだ分を一歩として全行程を五体投地で聖山を巡礼するのだそうだ。


この仏塔はいつごろからあるのだろう?
伝説によればリッチャビ王朝(紀元後五~七世紀)だとされる。わずかな考古学的な検証でもそのころにはあったとされる。
★ヴィクラミット王は新たな王宮を建設するが肝心な水が出ない事を悩んでいた。
占星術師に占わせると「神への生贄が必要だ。バッティス・ラクシャナ(三十二の肉体的特徴)を備えた人が自らを犠牲にするしかない。」と言われた。調べてみると、その身体的特徴を満たす者は王自身と二人の皇子しかいないことが分かった。
王は皇子の一人に指示する。
「夜にななると王宮の前に寝ている貧しい男がある。顔を見ずにその者を犠牲にせよ。」
皇子がそれを実行してみると、父親その人を殺してしまった自分に気づいた。
占いの通り水は出た。が、皇子は贖罪のためにどうすべきかを占い師に問うた。
「雌鶏を宮殿から放し、それが舞い降りた場所に仏塔をたてるのがよろしかろう」
そこがボダナートになった。


別の伝説もある
★釈迦のジャータカ(前世)の一人である聖者カッサパ(日本語では迦葉佛)が亡くなった時、雌鶏を飼育する一人の老婆が埋葬するための土地を王に懇願した。
「この雌鶏の皮一枚分の土地を埋葬のためにいただけないでしょうか」
王はその程度の土地ならばと許可すると、老婆は鶏の皮を細い細い紐にして、巨大な仏塔が建てられる広さの土地を囲ったのだった。



ボダナートを出てすこしいったところによく似たかたちでもう少し小さな仏塔がある

これもチベットから嫁した王女だったかの墓と記憶しているのですが…忘れてしまいました。
仔細がわかったらまた更新いたします

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バグダプル~陶工広場、ダルバール広場

2020-06-04 08:03:49 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより
バグダプルの王宮はカトマンドゥよりも古い。
ネパール国旗のもとになったとされる木彫が王宮を入った小さな広場に面して残されている。

月はシャハ王家、太陽は実権を握っていた宰相のラナ家をあらわす

二つの家の関係は、鎌倉時代の源将軍家と執権北条氏といえばわかりやすいかしらん。
1951年にトリブバン国王が亡命先のインドより帰国し、百年にわたる宰相家支配を終わらせた。
トリブバンはネパールの国際空港の名前である。
王国は2008年に終わってしまったけれど、国旗はそのままのこされた。
↓この木彫はバグダプル王宮への入口「黄金の門」をくぐったところにある

となりの王宮は「五十五の窓をもつ宮殿」と呼ばれる。17世紀末から18世紀はじめの建築。
もともとここが首都だったのだが、息子たちに平等に分けようと思った王様があって、小さな盆地に三つの王朝(バグダプル、カトマンドゥ、パタン)が並立することになったのである。

王宮前ダルバール広場

王宮内部よりも沐浴場のヒティ(水場・井戸)が印象にのこった

カトマンドゥ盆地は地下水が豊か。

コブラは王権を守るヴィシュヌ神の守護動物



**
少しはなれた陶工広場には、その名のとおり広場いっぱいに陶器がならぶ

ネパールでは中世以来の伝統が受け継がれ、同業種は同じ地域にかたまって住んでいる。

↑何をつくっているの?
「貯金箱」だそうな。これは新しい商品だろう。
よく見るとコインを入れる切れ込みがある。最後には割ってお金を出す仕組み。
上は2010年

↓2004年には見た時は伝統的な器だけだった

小さな器は使い捨てなのではないかしらん。
インドのカフェではチャイ(ミルクティ)を入れて出してくれて、
終わったら地面にほおり投げて割っていた。

子供達も働いている。

こうした環境で育てば、自然に陶工になってゆく人は多いだろう。


子供たちの遊びは世界中でわりと似ている。



2008年に訪れた時

アイデア商品もまれてゆく

「ろくろ」はどのぐらい古くからあるのだろう。
古代エジプトの神殿でも「ろくろ」の上でクヌム神が人間をつくる姿が刻まれていたっけ。
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バグダプル~トゥマディ広場、ダッタトラヤ広場、孔雀の窓

2020-06-02 08:42:06 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ盆地に点在する古都のなかでもバグダプルは見所が多い。
ニャタポラ寺院は五層、三十メートルの高さがありカトマンドゥ盆地で最も高い。

1701-2年にかけてたった五か月で建設された。
日本なら赤穂浪士討ち入り事件の直前。
台座のいちばん上までの急な階段を上る↓

門番役のいちばん下にいる二人は釈迦のいとこのジャヤマッラとパッタマッラと解説された。
これはつまり…ヤシュダラ(耶輸陀羅)と、釈迦暗殺を企てたとされるデーヴァダッダ(提婆達多)のことではないかしらん?
※詳しい由来はわかりませんがここにその二人の話があります
木造の回廊に立つとバグダプルの街が俯瞰できる



三十屋根をもつのはバイラブ神(シヴァ神の怒りの姿)の寺。
ヒンズー教の神と仏教の神が同じ神として寺に祀られていることもよくある。
それがネパール。
↑写真の左下に大きな車輪があるのがわかる

これは祭の山車の車輪。
※お祭を見る旅も企画してみたいとは思うのだが、そのほとんどがネパールの雨季にあたるのが難点。
その時期はヒマラヤの美しい山々がほとんど見えないのです。


トゥマディ広場を見下ろしながら急な階段を下りる。
右手前方に、ニャタポラ寺院とおなじような木造の建物が見える↑
同じく18世紀の建物ということなのに、↓「カフェ・ニャタポラ」として営業している。

ここの上階で昼食を楽しむ


メニューは暖かいスープにネパールの定食「ダールバート」とヨーグルトと米のデザート


ネパールのICEBERGビール



**
巨大な山車の車輪が置いてあったバイラブ寺院の横の道に入る

頑丈な井戸はいったいいつごろから使われているのだろう

水場の位置は移動できない。15世紀ごろにバグダプルの街が形成されていった時期にはあったと考えてよいのではないかしらん。

***
ダッタトラヤ広場は同名の寺院がある

石の柱の上のガルーダ



ニャタポラ寺院の前でも見た釈迦のいとこ二人の像。
↑その右側の柱の上にある巨大な法螺貝は「ディーバダッタ」という神から与えられた武器。
ヒンズー神話「マハーバーラター」に出てくる。
左のは法輪?これももともとは武器。
↓細部の目を奪う木彫

この寺院は一本の巨大な木からの木材で出来ていると伝承されている。
カトマンドゥにも同じ伝承が伝わる寺がある。

木彫博物館もあるバグダプルの、もっとも有名な木彫が「孔雀の窓」

16世紀ごろの、細部まで繊細に仕上げられた木彫の窓。破損せずに現代まで元の場所にある。

博物館に収蔵されてもよいものだが、オリジナルの場所にあることは大切だ。





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ネパールの現代史と握手

2020-05-31 16:04:16 | ネパール
2004年の1月から2010年の11月の間に《手造の旅》ネパールを五回催行した。
2005年には王が議会を封殺する政変が起きた。
※いまどきルイ14世の様な絶対君主をめざしたのです
マオイスト(毛沢東主義者=共産ゲリラ)が出没した不穏な時期もあった。
2008年には二百年以上続いた王国が終わり、ネパール王国から共和国になった。
今から考えると激動の時代だったのだが、観光客が危害を加えられるようなことはなかった。

このブログを書きはじめたのは2011年から。なので「ネパール」という項目はこれがはじめてになる。
今になって十年以上前の旅を個々に書くことは難しいが、この機会にそれぞれの都市の話を小松の視点で書いてみる。

2008年11月の訪問で、ネパールの現代史を体現しているようなG.P.コイララという人物とお会いする機会があった。
まずは、その時に小松がメール・マガジンに書いた文を再録する↓
**

コイララ氏の手はその体と同じように大きかった。
しかしとても柔らかな手でもあった。
ネパールの現代史をそのまま見てきたG.P.コイララ氏は今年85歳になるが、「老い」を感じさせない風貌と強い眼差しが印象的である。

ネパール第二の町ポカラの名門ホテル、シャングリラ・ヴィレッジに到着した日、ホテル中の警備がいつもより厳しかった。
「誰かVIPですか?」
「コイララさんです」

2008年5月、二百四十年続いた王制が議会によって停止されたネパール。
総選挙で新しい共和制政府が誕生するまでの間、動揺するネパール暫定政権の首相を任されていた人物として新聞で知った名前だった。

彼には兄が二人いて、この二人ともがネパールの首相になっている。
長兄マトリカ・プラサド(M.P)コイララは、1950年代に亡命先のインドから帰国し宰相家支配を覆したトリブバン国王下で二度首相になった。1997年没。
次兄ビシュウェシュワール・プラサド(B.P)コイララは、トリブバン国王の息子マヘンドラの元で民主選挙により首相に指名されたが、専制君主化した国王に反対し罷免・投獄される。インドに亡命し、国王の死後帰国。1982年没。

そして三男のギリジャ・プラサド(G.P)コイララが、私が握手したコイララ氏である。

2008年にはなんと五度目の首相選出だった。
若い頃は兄と共にインドに滞在し、次兄が投獄されていた時には反政府ゲリラのひとりだった。後年、自らの生涯を語る番組で「銃を持って戦っていた」と語っている。

彼の経歴はネパールの現代史そのものである。
つい最近まで反政府テロ活動をやっていたマオイスト(毛派という共産主義に影響を受けた集団)でさえもコイララ氏には一目おかざるをえない。
思想は違っても同じ元反政府ゲリラ経験さえある「大先輩」なのである。
こんな人物だからこそ、王制の廃止が決まり混乱するネパールで首相に担ぎだされた。

その彼が今、同じホテルに滞在している。

シャングリラ・ビレッジは客室数の少ない小さなヴィラ風のホテル。
庭で散歩して出会ったら誰でも友達になれそうな雰囲気がある。
コイララさん、散歩でもしてないかな。
ちらっとでも見かけるチャンスがほしいものだ。

そのチャンスはむこうからやってきた。
「あのぉ、そちらのグループが使っておられる部屋を、コイララさんが使いたいと言われております」と、レセプションの人が言ってきた。
なんでも高齢で体調がよろしくないコイララさんが、一階に滞在している娘さんとコネクティングになっている部屋に移りたいと希望したのだそうだ。
偶然、その部屋は我々グループのメンバーが使っていた。
「どうぞ、どうぞ」
もちろん喜んで部屋を換わってさしあげることになった。

翌日。
我々が観光に出発しようとすると、大勢の警護にかこまれた人物がロビーの椅子に座っていた。大柄で長い手足、ネパールの民族帽子トピをかぶった顔はひと目でコイララさんである。

少し緊張気味に「皆さんと写真に写ってもらってよいですか」とお願いすると、通訳の方が昨夜部屋をかわった顛末を話してくれてか、コイララさんは気楽に応じてくれた。椅子から立ちあがって我々のメンバーが並ぶ中に入ってきてくれた。

二枚シャッターを押し、写真の列がほどけた時、正面から彼の目を見て話しかけた。
新聞やテレビでなく、間近に見るネパールの現代史を体現している男。
幾多の変革の中で生き残り、味方だけでなく敵側にある者にさえ敬意を払われているのはいったいなぜなのか? その理由を少しでも感じたい。

「ありがとうございました」と握手。
「あなたはとっても若いですね」と私が彼に言う。
この言葉はまわりの警備の面々にも聞こえて、笑い声があがり、コイララさん自身も嬉しげにおどけてみせてくれた。 いや、私は実際思った通りを言ったのだ。彼は85歳ではあっても老人のようには全く見えなかったから。

その場を離れてた後、メンバーの一人の女性が言った。
「くらぁっときちゃったわぁ♪」
彼女はコイララさんのすぐ隣に立って写真に納まったのだが、その時コイララさんは彼女の腰に手を回してぐっと引き寄せたのだそうだ。
それはごく自然に。がっちりと受け止め信頼を感じさせてくれる手だったのだろう。
だから「くらっときちゃった」のである。

その言葉を聞いて、私が握手したときに感じた印象もまた同じだったと思った。
彼の手に触れて感じた不思議な雰囲気はなんなのだろう?
初対面の彼がナニモノかを知らない外国人女性でも、「くらっと」させる人間的な磁力がコイララさんには備わっている。 

その磁力は彼が波乱のネパール史を生き抜いてきた人だから持っているものなのか?
あるいはそんな魅力ある人だったから動乱の現代ネパールを生き抜いてこられたのか?

人が相手の持つ高い地位やお金に頭を下げるのはいつものことである。
下げざるをえなくなる事もある。
しかし、ほんとうの人望というものはそんなものでなく、頭を下げさせることが人望なのでもない。

地位・役職などは解任・引退で終わり、お金も無くなれば終わり。
地位もお金も、本当には自分と一体になり得ない。

では「何」が人を惹きつけるのか。
鍛錬された精神が、同じく鍛錬された肉体と離れがたく同居していること。
コイララさんの手から感じた確かなことはそれだ。
そんな人と握手したとき、腰に手をまわされた時、その存在そのものが強くひとに響く。
コイララさんの大きな暖かい手は説明の必要もなく魅力的であった。
***
2020年追記:
コイララ氏はこの出会いから一年半後に没した。


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