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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ポカラへ移動して市場を歩く

2020-06-21 15:31:14 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより
ネパール第二の都市ポカラからはマチャプチャレがよくみえる

いつも泊っていたシャングリラ・ヴィレッジの庭から朝の眺め(上の写真も)

**
カトマンズ空港でイエティ(雪男)航空にチェックイン

の国内線は二十人ほどしか乗れない小型機

ポカラまでのフライトは右側にずっとヒマラヤが見えている

ポカラ空港はほんとうに小さい

ターンテーブルもなくて

荷物はこうやって持ってきてくれました。
***
街のメインストリートを歩いてみよう

近隣の村々からやってきた人々が農産物を直販している

ネパールには百以上の民族と同じぐらいのカーストが入り組んでいると説明されるが、この市場に集う人々を見ているとたしかに多様。ほとんど単一民族・言語の日本人には理解できない世界なのだと実感させられる。

人が集まるところには

食べ物屋が

綿菓子屋が

服屋が

歯医者が

牛が

観光客のためのアンモナイトの化石が

チベット方面への川原にはアンモナイトの化石がごろごろ転がっているところがあるのだそうだ。




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キルティプルの人には鼻がなかった

2020-06-18 21:55:34 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
密集した家々が小さな丘を囲む

十七世紀ごろに家でなく城壁がぐるりと街を囲んでいたそうである。

中世の街作り遺伝子が現代にも継がれているのかしらん。
**
街の中心にあるバイラブ寺院は十六世紀ごろに建設されたものとされる

上階にたくさん吊るされているのは何?

これは1767年にキルティプルの戦いで使われた劍や鎧兜

カトマンドゥ盆地に点在するネワール族の街がゴルカ族に征服されてゆく最初の激闘だった。

二十三度にも及ぶ戦闘の末陥落したキルティプルを、ゴルカ族の王プルティヴィ・ナラヤン・シャハは見せしめにしようと考えた。
十三歳以上のすべての住民の鼻をそぎ落とすことにしたのである。
これ以降、鼻の無い人を見れば誰も[がキルティプル人だと思い、ゴルカ族支配に抵抗した結果を恐ろしく感じるようになる。
この蛮行は伝説ではなく実際に行われたらしく、同時代に訪れていたキリスト教宣教師が記録している。
二十年後に訪れたイギリス人も「鼻の無い老兵たちを見た」と証言している。


ここのバイラブは怒れる虎の顔をしたシヴァ神。
伝説では土で作った虎がそこにいたヤギを食べてしまったという。

奉納に大きなヤギのアタマがあるのはそのせいかしらん。




ガンガー(ガンジス川)の女神が出産している像

↓ナーガ蛇に守られた姿は王の守護神とされるヴィシュヌ神。
↓右はその妻ラクシュミー神にちがいない。足を揉んでるのかしらん?

***
キルティプルは忙しいツアーはあまり訪れない。

それだけにネワール族の生活がそのまま生きている町だと感じる。

いまにも倒壊しそうな家々に、精緻な木彫が施された窓がついている。


↓落っこちないでね

↓このヒティ(水場)に面した長い建物は元は王宮だったとされる

今は所有者が分割されているのが壁の色でわかる



高台にあるウマ・マヘショワル寺院まであがっていこう



キルティプルの標高は1400m。カトマンズ盆地より百メートル程高い。

近くの黒い山々を見下ろすように七千メートル級のヒマラヤの尾根が光る

石の基壇の上に木製の寺院が建つ

木造部分は何度も壊れては再建されてきた。
最初に建てられたとされる年号は1655?1666?1673?調べると資料によってちがう。
1832年に地震で壊れ、1933年に再建、1947年に嵐でほぼ倒壊、1982年に現在のものが再建。
一見してもっと古い彫刻であるように見えるが、それは倒壊しても装飾は古いものを再利用するし、他の壊れてしまった建築につかわれていたものを流用することも珍しくない。

17世紀のオリジナルとはっきりしているのはこのゾウさん(^.^)
↓背中に鉄の刺を背負っているのはなぜ?

「子供が登って落ちるとあぶないから」だそうです。なるほど。

基壇のいちばん上に西洋風の鐘が吊るされている。

間近に見ると製造会社の名前が刻まれている

「“Gillett & Johnston Founders, Corydon” made on 1895 A.D.」
この鐘はもともとカトマンズ市内に1894年に建設された西洋式の時計塔のためのものだった。
そちらの塔も地震で壊れてしまい、行き場を失くした鐘のひとつがここに寄せられた。
※新しいデザインで再建された時計塔の話がカトマンズの新聞の記事にありました
****
細い旧市街の道

北インドに多い「シカラ様式」の仏塔も子供たちの遊び場

かつての日本の寺社もそうだったっけ。


↑女の子が生まれた家
民家の扉に貼られていた写真↓

誕生を祝う儀式の品々?

細い道の真ん中につくられた作業所で↓

これは麦を轢いていたいたのかしらん。

キルティプルはカトマンズ盆地歴史的な街のなかでもネワール族の生活が近くに感じられる場所だ。

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カトマンズ盆地から見るヒマラヤとエベレスト・マウンテンフライト

2020-06-15 08:45:13 | ネパール
2005-2010《手造の旅》ネパールより
「神さまはあそこから見ている」言葉にしなくてもそう感じさせる荘厳さ

カトマンドゥ盆地内の少し高台に位置するキルティプルの街から夕焼けのヒマラヤ
※キルティプルについては別に書きます
↓盆地の中央部のバグダプルから↓



↑こちらはカトマンドゥ国際空港から
国内線のフライトが何時間も遅れた時、空港のテラスから飽きずにながめていたことがあった。

↑ナガルコットの丘にある「クラブ・ヒマラヤ」ホテルの朝食で

ここのテラスから見るヒマラヤも美しいのだが、
「もっと近くから見たい」と思うのが観光客の心情。
では、エベレスト・マウンテン・フライトに乗らなくちゃ。

夜明けの霧に沈む盆地から飛び立つ

霧を抜けるとくっきりした青空。

七千メートル級の山脈が白く光っている

山脈を左手にしばらく飛ぶ。

↑二つの頂上をもつおもしろいかたちの山はガウリシャンカル。
シヴァ神と妻のパールバティ神が住む山とされる。
水晶がとれるのだそうだ。

全席窓側だから心配ない(^.^)

↑チョーユー山は8201m(世界第六位)

順番にコックピットまで入れてくれる
チョモランマ(エベレスト)はいずこ?
ひときわ高く黒く、ピラミッドのように見えてくるのがそれ↓


フライトがどこまで近づくことができるのかはその日の状況による。
見え方も違う。他日は頂上に雲をたなびかせていた↓

もう少し近くを飛んだ時も

自分の足で登ることはできなくても、世界最高地点を目のあたりにすると達成感がある。
と、機内販売がはじまった!

Tシャツ、なんて書いてあるの?

「私はエベレストには登らなかった、でも、心で触れてきた」
ぺらぺらですが(笑)買っちゃいました

このTシャツはしかし、いつもあるわけではありませぬ

搭乗証明書。約一時間のフライト。
上空の気象条件によっては空港で長く待たされることもあります。



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スワヤンブナート~カトマンドゥ盆地を一望する最古の?寺

2020-06-13 12:13:23 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより

カトマンドゥ盆地を西から見晴らすスワヤンブナート寺院

むかしむかし、カトマンドゥ盆地は大きな湖で、底から虹色の光が輝き出ていた。

湖にある島にマンジュシュリ(サンスクリット語)神が降り立ち、光をもっと見ようと湖を囲う土手となっているリムを切った。
湖の水は流れ出し、カトマンドゥ盆地があらわれた。
島だった場所が現在のスワヤンブナートだとされる。「スワヤンブー」とは「自ら生まれ出る」という意味。

マンジュシュリは文殊菩薩。神は自分の長い髪を切ってここに残した。
その髪についていたシラミが猿に変化して住んでいるのだそうな。


実際に湖だったとされるこの盆地。
伝説ではその前からあった寺だというのだが・・・。


東側からこの丘に至る四百段近い階段は、十七世紀にカトマンドゥ王だったプルタプマッラ王によって寄進された。

階段をのぼりきったところにある丸いモノは井戸だとされる。
こんな高いところに?
巨大な金剛杵(ヴァジュダラ)が置かれ、封印されている。

伝説によると覗き込むと未来が見えて気が狂うので高僧が封印したそうな。


近くにあるこの★シャンティプール堂も地下への階段があって

降りてゆくのは厳禁となっているそうな。
★伝説によると、プルタプマッラ王が雨乞いのためにこの地下に千五百年住む精霊を訪ねて降り、その霊力をかりて雨を降らすことができたのだそうだ。

「最近でも若者が肝試しに侵入して気がおかしくなった話がある」とガイドさん。

内部に歴史的な壁画が画かれているのだが、2015年の大地震で大きく破損。
※ユネスコによる修復の映像がこちらにありました
**

釈迦生誕図が置かれた池

スワヤンブー=「自ら生まれ出る」地に合わせたものだろう

仏教寺院ではあるが、ヒンズー教徒からも崇拝されている。

仏塔に貼られた金は

20世紀の修復時にカリフォルニアにあるチベット仏教寺院から寄進された二十キロの黄金が使われたそうだ。

頂上までの十三層は、悟りに至る十三の過程をあらわす。
中心の仏塔の周囲には寄進された小仏塔がたちならぶ。







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チャングナラヤン(その2)~本堂からチャング博物館へ

2020-06-11 08:54:27 | ネパール
2004-2010«手造の旅»ネパールより
チャングナラヤン寺院の5世紀から7世紀ごろと言われる碑文の前で

信仰心は理屈で育つのではない
物心つく前に、無意識のいちばん底に沈んでいるのだと思う。

子供のころから見ていた像がナニモノなのかを知ろうが知るまいが、怖れや信愛の感情は変わらないものだ。

ナラヤン神はヴィシュヌ神の化身のひとつ。
ヴィシュヌ神は「維持」を司る神で、従って王の守護神とされている。
ヴィシュヌ神の乗り物は神の鳥ガルーダ↓

リッチャビ王朝時代と思われるこの古い石像が10ルピー札のデザインに使われている

現世を支配するヴィシュヌ神が三歩で(七歩で?)世界を飛び越える図↓

ヴィシュヌ神が右手に持つ円盤の武器(スダルシャナ)が本堂前に↓

もともと太陽の炎がもとになっている。
日本の「法輪」のルーツに思える。
これら石柱はネパール最古のリッチャビ王朝にさかのぼるという調査がある。
※上部の金属は後の時代に付け替えられたものだろう。

根拠は刻まれているグプタ文字。北インドのグプタ王朝で4世紀から7世紀ごろに使われていたとされる。
つまり、ネパール最初のリッチャビ王朝と同時代にあたる。

いくつもの王朝の、何代にもわたる王がこの寺を訪れただろう。
18世紀はじめのバグダプルの王ブパティンドラ・マッラ王夫妻が自らの祈る姿を奉納している

カゴは後世に盗難防止を目的にして設置されたのではないかしらん?

**
車に戻る参道の途中に「チャング博物館」がある

私的な収集品を展示し、古い時代の生活スタイルを見せてくれる場所。

コインコレクションも

↑三王国時代を終わらせたプリトゥビ・ナラヤン王時代のもの↑

現代のコインがおもしろい↓これは何をしているところ?

二十世紀半ばにシャハ王朝がインドに亡命した際、親戚の家にいたので取り残された四歳のギャネンドラが宰相ラナ家の傀儡として王にまつりあげられた。傀儡の幼王が即位させられた時の図とコインである。
ギャネンドラは一年もしないで帰国した祖父トリブバンが国王となり退位させられた。
兄だけを連れて亡命した一族への恨みは持ち続けていたのではないかしらん。
2001年6月1日にカトマンドゥのナラヤンヒティ宮殿で起きた虐殺事件は、この時不在だったギャネンドラが黒幕だったかも…。
兄王ビレンドラと一族が、皇太子のディペンドラの錯乱乱射(と発表されている)事件で全員死亡。
生き残ったギャネンドラが王となり、議会を停止するなど時代錯誤の絶対王政を敷こうとした。
2008年にネパールが王国としての終わってしまう遠因はすでに半世紀前にあったのかもしれない。


これがキッチン。建物の上階にあるのが不思議。








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