旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

オークランドは火口丘の街

2024-01-02 05:25:24 | ニュージーランド
マオリ族が政治家の記念碑のために土地を提供している。

先住民文化とうまく共存しているNZらしい場所だ(後述)
**
オークランド空港を出て最初に訪れたのはマウント・イーデン↓

二十年前も定番の観光スポットだった。

当時はバスで頂上まで行けたが↑今は少し下に駐車場ができて歩かなくてはならない。

↑「マウント・イーデン」という西欧人のつけた名前から↑マオリ族がもともと呼んでいた「マウンガファウ」という名前の方を一般的にしようとしている↑

二百mほど坂を上ると↑頂上のリムをぐるっと回る木道に出る。

標高は200m弱だが↑オークランドの高層ビル街から海までがきれいに見晴らせる
↓そして↓噴火口の跡だとはっきりわかる。オークランドには48もの火山があるそうだ。

かつてここにはマオリ族の砦や食物貯蔵庫があった。

↑西暦1700年ごろのここを描いたとされる作者不詳の絵↑
描かれた様子をそのまま信じることはできないが、大きな砦があり多くの人が集まっていたことは確かだろう。

ランギトト島はオークランドにある火山の中でいちばん新しく↑約600年前の噴火で出現した。

↑数キロ離れた場所にも同じような火口丘が見えた↑
One Tree Hill
U2の曲名として有名になった丘。
「他にもマオリの人々を助けた政治家の記念碑がある丘がありますよ、行ってみますか?」とガイドさん。
冒頭写真がそれ。
オークランド湾の入り口に近い丘だった。

ランギトト島を見ながら海沿いを走り、丘にのぼってゆく。

記念碑そばに到着↑
●マイケル・ジョセフ・サヴェージは1935-1940にNZの首相だった。
社会保障が充実した現代NZの基礎をつくった人物とされている。
両親は1850年代の「アイルランド飢餓」を逃れてオーストラリアへ移民した。
八人兄弟の末っ子で、小学校を出た後は肉体労働。ボクシングとウェイトリフティングもやっていた。
灌漑水路掘りをやっているときに労働組合に加入し、政治に目覚めてゆく。

三十代でNZに移り、社会的弱者の声を国会に届けるべく
当時マオリ族の宗教カリスマとなっていたラタナと共闘する。
1935年、マオリ族の支援により労働党からのはじめての首相となり、
マオリ族もはじめて国会議員を送り出すことに成功した。
首相在任中に68才で亡くなると、マオリの人々は彼の記念碑のためにこの土地を提供した。

↑ニュージーランドの固有植物「ポフツカワ」はもうすぐ真っ赤な花を咲かせるだろう

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ダニーデンの夜、翌朝オークランドへ

2023-12-28 10:00:36 | ニュージーランド
ダニーデンの夜。
夕食は牛ステーキにした↓テーブルでバターを焦がしてくれる

今回の旅でNZが羊よりも牛を食べる国に変わってきたことを実感した。

市の中心「オクタゴン」にあるステーキハウス

人気店を予約することができた。

熟成肉の保存庫がある


付け合わせの季節の野菜は初夏らしいアスパラガス!

食後のコーヒーは

↑今回の旅で覚えたNZならではの「フラット・ホワイト」↑
牛乳の味を生かしていて、NZのどこのカフェでも通じるメニュー。
フツーのコーヒーは「ロング・ブラック」と書かれている。

午後九時近くに店を出たら日暮れのあとのトワイライト・タイム

↑「ファースト・チャーチ」のそばを散歩してホテルにもどった。
**
翌朝、ホテルの部屋から見るオタゴ半島

ここまでずっと晴天でほんとうに恵まれていた

↑あのあたりは雨が降っているだろう
ロビー横で朝食。いわゆるイングリッシュ・ブレックファースト。ホテル前は繁華街ど真ん中だが週末で空いている。

ダニーデンの急な坂の上は雲の中

空港に向かう道に入ると雨粒がたたきつけられてきた。
空港の天気を心配したが、十分ほどで今度は青空がひらけて

空港の表示がみえるころには

すっかり青空

日本の小さめな地方空港ぐらいのサイズ。

でも随所に楽しいデザインがいっぱい(^^)

ゲートが開くのをまっているとまた雨が落ちてきたが、

誘導係員さんは外からのタラップへ行けと言う。

離陸…

二時間弱でオークランドに降下をはじめた。

北島は南島よりずっと人口が多く、オークランドへは世界中からの航空路線が集まっている


↑降機してすぐに、南島との体感気温の差におどろいた。
天気予報の気温を見ているとどちらも20度前後なのだが、
南島のダニーデンの朝は初夏とは言えないコートがほしいぐらいの感覚。
北島のオークランドは昼に到着したせいでもあるが、
完全に「夏だ」と体感した。

日本からのNZツアーは南島を中心にしているものがほとんどだが
実際には北島でこそ現在のNZを知ることができるのかもしれない。
今回はオークランドに一泊するだけだが、
NZ北島だけの旅も考えてみたい。

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ダニーデンは「ニュー・エジンバラ」だった~世界一急な坂、オタゴ大学、ダニーデン駅、英国風の教会

2023-12-23 13:40:01 | ニュージーランド
カタカナの「ダニーデン」からDUNEDINという綴りはうかばない。
※由来を後述します
↑1906年開業のダニーデン駅のホーム看板
**
最初に街の位置がわかるシグナル・ヒル展望台へ

↑対岸に複雑なカタチをしたオタゴ半島↑
半島によってできた入江の奥にダニーデンがある。
最初の入植は1840年代。
見晴台の公園は入植の百年後「次の世紀」を記念して、もとあった公園を拡張した。
1840年はイギリス人がマオリ族からニュージーランドを取得したとされる「ワイタンギ条約」が結ばれた年である。

巨大なモニュメントは1950年代に完成した↑ブロンズ像↓

あとから調べてみるとこの女性は「the thread of life」↑つまり、抱えている毛糸の玉は魂の緒だった。
※ギリシャ神話の「モイラ」=命を司る三姉妹の女神↑糸を紡いでいいるのはそのうちのクロート?

逆サイドに坐する男神は歴史をあらわしている↑製作者はこの二つの像で何を伝えたかったのだろう。

↑モニュメントの前に置かれた石は↑スコットランドのエディンバラ城のもの↑1841年に贈られた↑
スコットランド移民は、はじめはNEW-EDINBURGH(ニュー・エジンバラ)と名付けたが、のちに(エジンバラの古い名前である)Din Eidyn→DuneideannからとってDUNEDINと改名した。Dinは古いゲール語(ウェールズ語という解説もあった)で城塞の意味。
EDINは、5、6世紀の聖女Edanaはアイルランドの聖人パトリックの弟子だったとされる

モニュメントの裏側にスコットランドのシンボル↑アザミ

ニュージーランドのシンボルのシダ↑

↑オタゴ地域の紋章にも↑いちばん上にイングランドのバラ↑ 左右にスコットランドのアザミ ↑下にアイルランドをあらわすクローバー(Sham rock)(聖パトリックのシンボル)
現代に至るまでダニーデンはスコットランドとのつながりを大切にしている。
***

世界一急な坂が、ダニーデンのボルドウィン・ストリート

住民はぜんぜん知らなかったが1987年にNZのキャスターがギネスブックに申請し、
サンフランシスコの坂を抜いて一位と認定された。
2019年にウェールズのスノードニア国立公園の道が世界一とされたが
2020年に厳密な測定の結果、一位に返り咲いた。
勾配はおよそ19度になる。

こんな道が出現した理由は、都市計画をした本人がここを訪れていないから。
イギリス本国で地図にまっすぐな道を引いて、それが実際にどんな坂道になるかは気にしていない。


↑坂から市の中心へ向かう途中の学校↑門が出征兵士の記念碑になっている↑
****

↑オタゴ大学はニュージーランドで最も歴史ある大学↑
1869年三人の教授によってスタートした。
1861年にオタゴ半島で金が発見されたことがダニーデンが栄えた理由。
1872年に鉱山を専門にする学部も創設されている。

ひとつの街のような場所

川沿いの散歩道もキャンパス

↑マラマ・ホールは1919年にリバプール伯爵によって礎石が置かれ1923年に完成した。

Arthur William第二代リバプール伯は、初代のニュージーランド総督になった人物。
オタゴ大学の「演劇部」が主にこの建物を使っている。


↑時計塔は2019年から古い鐘が鳴らされるようになった。

そのうちのいちばん大きな鐘?がベルタワーに入らなかったのか地面に置かれていた
↑1863年エジンバラと刻まれている↑
大学のHPに鐘の歴史があったのでリンクします↓とても足りませんが以下に要約↓
1863年にエディンバラで鋳造され、翌年ダニーデンの見本市会場に置かれた鐘。
1871‐77年までその建物が大学になって、鐘は大学のシンボルになっていたのだが、
1877年に建物がコロニアル・バンクに売却された際、新しい所有者が時計と鐘は販売用の備品であるとして、大学側の所有権を拒否した。
1969年に証券取引所となった建物が取り壊された時、鐘は行方不明となっていた。
1997年に発見され、メリディアン・モールに展示されていたが、
2019年に大学の時計塔に設置されたのだった。


*****

突然見えてきた中華門は2008年にオープンした中華庭園の付属として、2011年に上海から贈られたもの。
ダニーデンの市長は2004年から2010年まで中国系NZ人のPeter Chinという人物だった。
中国名は陳荣和。
1941年生まれの彼の先祖は19世紀に移民してきた初期中華移民。
ファミリーはもともとテイクアウトのフィッシュ&チップスを売っていた。
名門オタゴ・ボーイズ・スクールからオタゴ大学へ進学し弁護士になり、
市議会議員から市長になったのは、NZ中華系移民を代表するサクセスストーリー。
在任中に中国との関係を密にして、中華庭園やこの中華門を町中に出現させたのは議論になった。

******

ダニーデン駅が見えてきた

世界遺産に登録されただけのことはある↑白い石は今日歩いていたOAMARUオアマルの石灰岩だ※リンクします


今も駅舎として使われ、誰でも入ることができる。

↑第一次大戦の出征兵士がここから出発したことを記したプレート

内部は見事なタイル装飾

英国王室御用達のロイヤル・ドルトン社のタイルを75万枚使用しているのだそうな。
※NZ観光局の日本語HPにリンクします
20世紀初頭はアールヌーボーの時代↓

↑取っ手ひとつに時代が凝縮されている↑

ステンドグラスもあの時代らしいデザインだが、今見ても古臭くない。
*******
↓1863年創立のオタゴ・ボーイズ・ハイスクール↓
↓ここもオアマルの石灰岩を使ったイギリス本国そのままの建物↓

前出の元市長=中国系のピーター・チン氏もここの卒業生。
後輩が門の前に座ってる。

↑この学校入口にも第一次大戦出征兵士の像がある↑

アーチに書かれているのは学校のモットー?と思って調べてみると、
学校のモットーはラテン語で“Recti Cultus Pectora Roborant”
英語なら “The ‘right’ learning builds a heart of oak!”
日本語なら「正しい学びは《樫の心》をつくる」
※樫は固くて粘りがあり強い

門のアーチに書かれていたラテン語は、調べてみると
「Dulce et decorum est pro patria mori」。
訳すなら「愛国的な死は甘美で正しい」という少々怖ろしい言葉だった。
この言葉は紀元前一世紀・共和制ローマの詩人ホラティウスのもの。
※当時ローマは大国パルティアとの闘いに大敗していた
第一次大戦に従軍したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーエンが、
二千年前の詩の一説を引用し有名になった。
オーエン自身が第一次大戦が一週間前に戦死している。
※オーエンは皮肉を込めて書いたとする解説もあった

********
こちらも英国風のセント・ジョセフ大聖堂↓

↑1969年建造のカトリック教会

↓こちらノックス教会は1872年11月25日に完成した。

↑「ジョン・ノックスの死後ちょうど三百年の日だった」と、教会HPに誇らしげに書かれている。
ノックスは16世紀後半の宗教改革者。
メアリー・スチュワートとも会っている。
※2017年にエディンバラ徒歩観光で出会ったノックスの像を載せたブログにリンクします

ノックス教会を設計したRobert Lawsonが↓こちらファースト・チャーチも設計している↓

↑確かににている。※夕食後の散歩の時に撮影
ジョン・ノックスの創設した長老派教会はダニーデンの創成期にもっとも主流だったようだ。

17時過ぎ、ダニーデンの中心である「オクタゴン」近くのホテルにチェックイン。
南半球は初夏でまだまだ明るい。
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オアマル~ニュージーランドのヴィクトリア朝な街、モエラキ・ボルダーズにもちょっと寄って

2023-12-21 09:06:38 | ニュージーランド
イギリスの地方都市がそのまま残されているようなハーバー・ストリート。

地元でとれる「ホワイトストーン」と呼ばれた石で1860から80年代に建てられた、
まさにヴィクトリア朝の倉庫や事務所↓博物館に石材のサンプルが展示されていた↓

**
オアマルの街の入り口にはその「ホワイトストーン」でつくられたモニュメントがある↓

↑この石灰岩がNZ(ニュージーランド)各地の都市建築に使われた。
オアマルはワイタキ川の河口近くに位置しているが↓河口そのものではない。

歴史博物館でも飲料水には苦労していたと解説された。
なぜそういう場所に町をつくったのか?
オアマルの街は石材の切り出しと搬出に便利な場所を選んだ結果に思える。

ワンブロウ岬の影になって港がつくりやすく見えた事も
オアマルがここに建設された理由のようだ↓岬の上からオアマルを見下ろしたところ↓
マオリの戦の神MARUを祀った場所がこの岬にあった?
街の名前の由来である置かれていた19世紀の大砲は飾りなのか?歴史の一コマを象徴するものなのか?わからない

↑二つの桟橋が岬の下を守っている↓19世紀末の絵にも同じ桟橋が描かれている↓

↑今はヨットがぽつぽつ係留されているだけだが↑大きな蒸気船が入港している↑
↑1861年にオタゴ半島で金が発見されるといっきに人口が増え、船も増えた。

1864年にはじめて桟橋が建設される前↑沖合に停泊した船から小舟を使って荷下ろしをするのは危険な作業だった↑
1865年から足掛け三年かけて桟橋が建設されたが、
同年にやってきた嵐によって一晩で流されてしまった。

もともと良港とは言い難い場所。
現在は底が浅くて使えず、港はダニーデンに移っている。
**
ホワイトストーンのモニュメントを過ぎて街に入っていく

真っ直ぐな道が直角に交差する計画都市だ。

下調べの時に「19世紀にはロサンゼルスよりも繁栄していた」と解説があったが、
ほんの少し雰囲気が似ていると感じる。

下調べの時「オアマル・ホワイトストーン市民トラスト」のサイトで見た建物がいくつもみえてくる
※HPにリンクします


第一次大戦慰霊記念碑の向こうに↓ランドマーク的な聖ルカ教会が見えてくる↓1860年代街の創成期に建設された英国国教会↓

目立つ尖塔は20世紀に入ってから建設された↑

***
お昼少し前、
今朝の出発が早かったので早めのお昼にしよう。

雰囲気よさげなカフェに即決

ショーケースに並んでいるものもおいしそうだが

オーダーしてからつくってくれたこのエッグ・ベネディクト

ほどよい半熟加減(^^)

サーモンも、何枚でも食べられそう

「このお店の縁の下にペンギンが巣をつくって、日本の『ふしぎ発見』が紹介したんです」とガイドさん。
この町に来る多くの人の目的はペンギン見学だと知った。

「世界一小さなペンギン」とされるブルー・ペンギンは、メルボルンからよく見学にいったフェアリー・ペンギンと同じ種類なのだそうだ。

そう思ってみると↑いろんなところにペンギンがいます(^^)
****
冒頭写真のハーバーストリートを歩こう

かつて駅があって、蒸気機関車が走っていた。

↑こんなふうに

↑ハーバー・ストリート入口↑正面の建物はオアマル港湾事務所だった建物↑2001年に前出の「市民トラスト」が買い取り、2005年に修復された。

ハーバー・ストリートから市街地方向をみたところ↑左手奥のコーナーにあるのは百年以上の歴史があるホテル。最盛期17あったホテルのうち3つが今も営業を続けている。


↑歴史博物館は元は倉庫

なので正面入口から線路が中にひきこまれている↑

↑天井の高い一角で昔の街の様子が上映されていた


↑19世紀後半に流行したスピードの出る自転車↓ホンモノが展示されていた

★歴史博物館のスタッフに街の歴史をきかせてもらったなかで興味深かったこと
●1906年から1960年まで半世紀以上も「禁酒法」が生きていた
港町は荒くれ水夫が多かったので「禁酒法」が導入されたのだろう。
だが、19世紀には飲料水を確保するのがたいへんだったので、衛生管理のためにビールを飲むことを奨励していたという話もあった。
アメリカの「禁酒法」と同様に、販売は禁止するが飲むことそのものは禁止されなかった?
●アジア人と白人が写ったこの写真↓左下の「VJ」とは何?

中国人移民を受け入れたのは本国が日本に侵略されて難民が発生していたから。
「VJ」はVictory over Japan=日本に勝った記念日
これは本国に送還される危険も意味していた。
※オアマルに最初の中国人がやってきたのは1865年。12人。
1869年には2000人になっていたのだそうな。


二時間ちょっとのオアマル滞在だったが、
行程に入れてよかった(^^)

*****
午後、オアマルからダニーデンまで100キロちょっと南下する。

途中で「モエラキ・ボルダーズ」に寄る。
モエラキという場所にあるボルダーズ(丸い石)。

車を止めて海岸へ降りていく↑

砂浜に無造作にころがっている丸石。

NZ観光局のページにはまだ砂に埋もれる前の写真が載っていた。
なぜこんな石になったのかよくわかっていない不思議な石。
この土の中にもっと埋まっている?触ってもなにしてもかまいません。

↑割れたものも


午後三時ぐらいにはダニーデンに着けそうだ。
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プカキ湖に映るMt.Cook、ワイタキ川の発電所を経由して東海岸へALPS to OCEAN

2023-12-07 05:26:56 | ニュージーランド
毎日こんなに晴天でよいのか、と思う。
プカキ湖湖畔、小さなパーキングスペースが絶好の撮影スポット。
**
ダニーデンまで移動する一日。
テカポ湖畔のホテルを07:30に出発。

すがすがしい朝のドライブ。
プカキ湖畔はきのう午後も通ったが、光がちがう。特に湖の向こうのサザン・アルプスが輝いている。

小さな車なので、マウント・クックが正面に見えるあたりで止めて湖畔に下りる。

風もなく、鏡面のような湖面。
それぞれ「年賀状用」の写真を撮影(笑)

きのう遊覧飛行から見えた1970年代に建設された発電用の水路が流れだしている。
※1953年から流域の発電事業がうごきはじめているが完成したのは1970年代後半

↑道路からは見えないが、きのうセスナから見えたオハウ湖への分岐点をすぎる。
**

トワイゼルの町にはサーモンの養殖場がある。

検索すると、NZはキングサーモンの世界シェア三割と書かれたものもあった。
きのうとおとといでそのおいしさをよく理解した。

牧草地は↑こういう機械がなければこんなにはすすまなかった。

NZをドライブしているとつい「自然が豊かな」と言いたくなるが、そうではない。
原生林に覆われていた島を開拓した人々の苦労を忘れてはいけない。
特に高地では羊と牧羊犬がいなければ生きていけなかった。

オマラマは高級ウールのメリノ種羊で有名だった町。


1853年からの入植でどれだけメリノ羊に助けられたのかを↑1994年に顕彰している↑


↑オマラマはクイーンズタウンへ行く道と東海岸のオアマルへ行く道の分岐点。
つまり、日本のツアーはほとんど行かないルート。
クライストチャーチのガイドさんも五年ぶりだそうだ。

町の入り口左右に同じ名前が書かれているが、
これはここがマオリ語の地名だということ。
英語地名と二つ持っている町は左右違う名前が表記されている↑

★テカポから東海岸への地図↓雷マークが発電所↓赤い線が道路↓灰色の影が水路↓

マッケンジー高地の湖を水路でつなぎダムを建設する治水・発電計画がはじまったのは1950年代。
1970年代末にかけて8つの水力発電所が稼働している。

オマラマから東海岸に向けて流れるワイタキ川に沿ってドライブし、

アヴィエモワダムの堰堤に出た。

羊の群れが近く居たが、様子がちがう↓春先だというのに子供が一頭もいない↓

↑これはオスたちのグループだった↑すごく巨大な「袋」がぶらぶらしている(^^)/
羊が生まれると、ほとんどのオスは肉用に出荷されてしまう。
子供を産むために必要な分の立派な一部のオスだけがこんなふうに隔離して生かされている↓


全長200㎞ちょっとのワイタキ川。
もともと蛇行する自然な川だが、それは水害もひきおこしていたということ。

治水対策としてダムを建設し農地を出現させ、多くのひとが住めるようになる。
流域の町は水力発電所建設によってできた新しい街が多い。


↓昨日マウント・クック・ヴィレッジでみかけた看板↓

ALPS to OCEANをうまくデザイン化している↑

サイクリングロードがきれいに整備されている。

ワイン畑もみられる。

イギリス風の教会も。

十数年前に比べて、羊よりも牛を多く見かける今回の旅。
きけば、羊の数はこの半世紀ずーっと減り続けている。
中国の台頭で、イギリスに大量に買ってもらえた時代は終わってしまった。
羊よりも牛の肉の方が需要がある。
かつて荒れた高地では羊やヤギしか育てられなかった。
近年はダムの発達・農業機械の発達で、牛が育てられる牧場に転換しているのである。

東海岸が近づいてきた。

オアマルでちょうどお昼になる。
出発前の下調べで街のウェッブサイトが「ロサンゼルスよりも栄えて、人口が多かった」と誇らしく解説していた。
さて、いかに。
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