旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トラブゾン旧市街とスメラ修道院へ

2013-04-25 13:14:11 | トルコ
トラブゾンのNOVOTEL HOTEL朝食はパンが豊富。このあたりは小麦のかわりいにトウモロコシを使った黄色い生地のパンがめずらしい。
どれもおいしい(^^)

トルコ北東部は黒海からすぐに山になっている。大型バスで四十分走って、15人乗れるバンに乗り換えてさらに十分ほど。そこから15分こんな道をのぼって標高は1200mに達している。

途中でカラデニズ(黒海)ケメンチュという三弦楽器を弾くおじさんに出会い

かつてのスメラ修道院へたどり着く。高い岩の中に入り組んだ六階建ての建物が造られていたのだ。途中の道から見上げるとこんなふう↓


内部は六世紀からに遡るフレスコ画に埋め尽くされている

いわば本堂の天井には巨大なキリストと聖母マリア

ともに少し黒っぽい顔をしている。スメラ修道院の語源は、ギリシャ語のメラス=黒だとされる。

フレスコ画は何度も上塗りされている。ここは14世紀頃のものか?

壊れたところから、より古い筆致の絵が覗いていたり、場所によっては明らかに19世紀頃に描きなおしたと分かる部分も見える。ここは二十世紀初頭まで実際に使われていた。
伝説によると、十二使徒のひとり聖ルカが画いた聖母マリアの肖像画があったとされる。

1453年のコンスタンチノープル陥落の後も、ビザンチン帝国の最後の生き残りであるトラブゾン王国は1461年まで生き延びた。スルタン・メフメット二世直々に攻撃を受けて街は陥落したが、だからといってキリスト教徒が追い出されたりはしなかった。
オスマントルコの皇帝はイスラム教徒だが兄弟宗教であるキリスト教にもちゃんと敬意を持って接し続けている。
トラブゾン生まれのスレイマン大帝はじめ、多くのスルタンが修道院に寄進をしているほどに。

修道院がこんな廃墟になったのは、共和国トルコが成立した1923年。ギリシャ系の住民が強制的に移住させられた住民交換が起こった時である。
信仰する人々が追い出されてしまっては修道院は存続できない。
貴重な品々を持ち出せるだけ持ち出した後、「イスラム教徒の手におちるよりは」と、修道院を爆破したのは修道士であったということだ。※このあたりの話は修道院の英語版ガイドには載っていません。トルコ語の詳しく歴史を解説したものにだけ書かれていると、今回のガイドさんがはじめて教えてくれた。

今は雨ざらしになってしまったこの空間も、かつての写真ではたしかに屋根があった


最も大切な、聖ルカによって描かれた聖母マリアの肖像画は、一キロ離れた聖バルバラ教会の地下に埋め隠されたそうだ・・・★この聖なる絵についての話は、こちらに書きましたのでお読みください。現地の英語版ガイドと、同行したトルコ人ガイドさんからの情報、および、後日ネットでの情報によります。

**
トラブゾンの街に戻り、バスは入り組んだ路地にはいっていった

今回の小松のこだわりはビザンチン時代の聖エウゲニウス教会を見つける事。メフメット二世がトラブゾンを征服後、最初の金曜日(イスラム教徒にとっての聖なる日)に祈った場所とされ、現在イエニ・ジュマ(新金曜日)モスクになっているという。
前回来た時に入手していた現地のガイドブックを読んでいて、見ていただくに値すると判断した。

だが・・・その場所が正確にわからない。バスで入っていけるような場所にあるのかどうか・・・訪れやすい市街地なのかどうか・・・。そんな懸念を感じつつも、今回の真面目な運転手ガディシュさんは、巨像のようにどんどん路地にはいっていく。

歩いている人の「こんなところに観光バス?」という視線を感じつつ、はらはらしていると、突然「あ!あれだ」と、直感する建物が見えた。

いかにも元教会の雰囲気を感じさせるドーム。なにより、そのロマネスク的な後陣部分の形状が美しい。幸いすぐ前にバスを駐車可能。降りて入っていくと、ちょうどお祈りの時間がおわったところで、地元のおじさんたちが出てきたところである

「中に入っていもいいですか?」「どうぞどうぞ」トルコでは異教徒がモスクへ入るのも、お祈りの時間でなければそれほど問題にされない。入ってすぐに、そこが教会だった頃の空気が感じられる。

資料によると、ビザンチン時代に街を守った聖エウゲニウスに捧げられたバジリカスタイルだったが、後に手が加えられ、現在見られるのは13世紀のかたちだそうだ。建設材料には古代の神殿の意志も利用された形跡がみられる


おもしろいのは、祭壇の場所。教会時代の主祭壇は東向きだったが、モスクになってからメッカの方向=南向きに変えられた↓

トルコも東の端までくると、メッカは東ではなくほとんど南方向になるのである。
よって、教会時代の祭壇はなくなり、その場所の壁をぶち抜いて今の玄関がつくられているのである。

外部にはビザンチン時代コムネノス朝の頭が一つの鷲が彫られている

****
モスク番のおじさんはちょうど街へ行きたかったのでバスに同乗することになった。

バスはトラブゾンの旧市街へ向けてさらに坂を下りていく。


途中、古い街が取り壊されている様子がそこここに見えてくる

観光客にとっての「風情のある町」は、往々にして住民にとっては「住みにくい街」だったりするから、仕方ないのだが




旧市街の中心部にある、もうひとつの主要な元パナギア・クリソケファーロス教会・現オルタヒサールモスクを訪問。

前回入手した資料を読み込んでみると10世紀の教会以前にも教会があり、さらにその前にギリシャの神殿があった。やはり、入口にあるイオニア式の柱は古代からのものだと考えてよさそうだ。

外部にもこぶりな柱が二本

神殿だった時代からと思われる大理石装飾が壁にも残されている

かつて主祭壇があった東側のアプスにむかって左右の壁。これと似たものはイタリアの古代神殿を利用した教会の壁でも見たことがある。


ここは、コムネノス朝時代には戴冠式につかわれた、一番上位とされる教会だった。メフメット二世によって征服されたのち、最初にモスクに改称されたのもここだとか。前回、「最初に金曜礼拝をした」と書いたが、それは、今回先に訪れたイエニ・ジュマ・モスクだったようである。

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昼食はどこも予約していない。繁華街の、この店でさらっと食べることにした。

観光バスは混雑した街の中に堂々と駐車。めったに来ないだろう日本人団体さんのバスだから許していただいているらしい、ありがたいことです。
よっく見かける茄子料理イマム・バユルド(「坊さんが気絶した」の意)今日のはけっこう大きいです

そしてケバブにバターライス、唐芥子添え。これにはヨーグルトドリンク=アイランがよくあう

店にはトイレがなかったので近くのモスクのものを借りに百メートルほど歩いている時、偶然にもうひとつ見てみたいと思っていた元教会の建物が見えた。美しいロマネスク風の後陣。

地元の資料にトルコ語でキュチュク・アイヴァジル、英語で聖アンナ教会だと書かれている。七世紀創建のトラブゾンで三つの重要な教会のひとつだったもの。現在見えるものは九世紀に改修後。
内部のフレスコは失われたが、南入口に9世紀ビザンチン帝国のバシレイオス一世時代とされる碑文が見られ、地下もあるとか。ううん、今回は閉まっていて、時間もなかったので見られませず、次回への宿題。

*****
街の西はずれ、海が見える高台にトラブゾンのアヤソフィアがある。

ここは、数少ないトラブゾンを訪れるツアーでは必ず入っている場所だ。
1204年の第四回十字軍によって追われたビザンチン皇族が建てた。
先ほどのイエニ・ジュマ・モスクと同様の後陣を持っているのがよくわかる

ここもモスクに改装されていたが、現在は元の教会の姿をした博物館になっている。

柱頭のデザインはロマネスク風。セルチュクトルコの時代だからよく似た雰囲気がある

内部、美しい基本構造と一部にフレスコ画が残されている。

庭には時代ごとの墓石。ビザンチン時代、モスク時代の墓石が分かれて展示されている。

★小耳にはさんだ噂だが、現エルドゥアン政権がこのアヤソフィア博物館を再びモスクにしようとしているという。支持率の高いイスラム政党政権だからといって、そこまではやりすぎだと思う。このアヤソフィアの受付女性は何も知らなかった。デマでありますように。

**
黒海を右に見ながら、海からすぐの斜面にはヘーゼルナッツの林が延々続く。ひたすら走る。
途中のドライブインではヘーゼルナッツのペースト。
トラブゾンから東のリゼというところはお茶の産地

四時間以上走って、サムスンに到着したころには夕暮れ

ホテルはめずらしい日本からのお客さんを待ち構えてくれていた

最後に出された甘い甘いかぼちゃのデザート
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近年のイスタンブルは

2013-04-24 10:18:27 | トルコ
近年、イスタンブルは観光客に大人気!・・・代表的な観光地は混雑も相当なものになってきている。
朝、トプカプ宮殿への入場待ち行列

そして、中へ入ってから人の集中するのが「宝物館」

先陣争いのように並ぶことになる。入場待ちに三十分や時に一時間も時間を費やしていては、忙しい観光地ばかりを詰め込んだ日程は破綻の危機に瀕してしまう。
混雑を避けるのにいつがよいのか?明確な時間は現地のガイドさんでも読めないのが現状であります。

今日は晴れてとても気持ちが良い風が吹く日。行列してダイヤモンドを見るよりも、中庭で花盛りのチューリップを楽しむ方が正しい過ごし方だと思えてしまう。オランダのキューケンホフ公園のよう。オスマン帝国時代もここはチューリップの花園だった。何故チューリップは特別な花だったのか?

★チューリップはトルコからオランダへ渡った花だが、トルコではラーレ(LALE)と呼ばれる。(※LAREと書かれているサイトもあるが間違い)アラビア語では母音が書かれないので「LL」と表記される。神という言葉アッラーはALLAH。これも「LL」となるので、チューリップは神様の花と呼ばれ、特別な地位を得ていたのだ。宝物館もよいけれど、こちらも楽しみたい。


トプカプ宮殿の先端は海峡に面したちょっとした崖になっている。かつて神殿があった場所と言われれば確かにふさわしい。
そこから新市街ガラタ地区を遠望。

そこには、この混雑に拍車をかける原因が浮かんでいた。
大型客船から何十台ものバスがやってくる春夏シーズンを避けるのは一つの方法かもしれない。

トプカプ宮殿内・別料金入場箇所のハーレムに入ると少しは混雑がまし。それでも公式にはガイドさんが中で説明するのは禁止になってしまった。タイルを見るならハーレム内のものがいちばん美しいだろう。
これは部屋の暖炉上部↓

***
スレイマニエモスクへ移動すると、混雑はいっきに解消された。
ここは大型バスで近づく事が出来ない。さらに坂を上り下りする必要があるので、通常の団体さんは敬遠する場所。時間もかかるので忙しいツアーに入れることは難しい。
しかし、高名なオスマン時代の建築家シナンの設計したこのモスクは大きいというだけでなく、美しい。

前庭を囲む柱は多くが古代の建築から持ってこられた。特にはヒッポドロームのものが多いそうだ。
四本のミナレットのうち一本は「光る塔」と呼ばれたが、その理由はまた別のところに書きます。

内部は静謐な幾何学的空間がひろがっている。

音響もすばらしいのは、ドームの中に64個の壺がかくして埋め込まれ、床のレンガもわざと空間をあけてあるからだとか。

★すぐちかくに建築家シナンの墓がある

写真で丸く突き出した部分ではなく、そのすぐ右側の塀の中。
後の時代に彼を賛美した人々からの献辞が刻まれている↓


****
海峡クルーズへ出発

今日は午後、アジア側にある空港からトラブゾンヘ飛ぶ。
なので、混雑する橋を渡らない工夫としてもクルーズは一石二鳥。
ボスポラス海峡を渡る。

第二ボスポラス大橋を超えて、このヨーロッパ砦ルメル・ヒサーリが見えてくるまで追い風で、デッキの上は無風に近かった。

チャイを運んでもらってゆっくり飲めた。帰路、方向転換すると急に風がびゅうびゅう吹き出して下の階へ移動。
しばらくしてアジア側のウスキュダラへ上陸。
ヨーロッパ側にくらべると外国人観光客は少なく、トルコ人たちがお茶をたのしんでいる。

港のすぐ近くに、同じく建築家シナンが設計したミヒルマル・モスクがあった。

これはこぶりだが、とても美しいモスクだとされている。
シナンはスルタンスレイマンと寵姫ロクセラーヌの間に生まれた娘ミヒルマを愛していたという話がある。
内部訪問はまた別の機会に。

*****
アジア側のサビッハ・ギョクチェン空港へ向かう途上、あのナイチンゲールがクリミア戦争中に働いていた病院が見えた



この空港の名前は建国の父アタチュルクの養女で、トルコ最初の女性パイロットからきている。
空港内にあった、イスタンブルの人気サッカーチーム、ガラタ・サライのグッズショップ
ちょうど日が暮れる20時少し前、トルコ北東部・黒海沿岸トラブゾン空港へ到着
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徒歩でイスタンブル旧市街

2013-04-23 03:43:58 | トルコ
《手造の旅》二日目、アヤソフィア周辺をバスを使わずに観光。
フォーシーズン・スルタンアハメットに滞在故それが可能。
朝食の雰囲気はこんな★このホテルについてはまた別のところで、もっとご紹介いたします。

ホテルを出てすぐ、アヤソフィアへ入場する長蛇の列に遭遇今日は大型客船からのバスが何台も着いているようだ。ま、それでなくても、これから夏の時期にはとんでもない行列になるのだが。

ヒッポドロームを先に歩く。「ヒッポ」は「馬」という意味、ここは古代ローマ時代の馬車レース競技場。その中央に建てられていたオベリスクがそのまま現代に伝わっている。

見ての通り、これはエジプトからのもの。三千年以上前のルクソール神殿から持ってこられたものだから、ここに建てられた時代にはすでに一千年以上前の遺跡から持ち出されたものになる。

コンスタンチヌス帝の時代、すでにアレキサンドリア港まで持ち出されて放置されていたものを、紀元後390年になってからテオドシウス帝がここに持ち込み立てた。オベリスクが乗せられた石には、そのことが絵図とギリシャ語ラテン語の二つの言葉で書かれている。

面白いのは立てるのに要した日数が、ギリシャ語で32日、ラテン語では30日となっている事。なぜ日数が違うのだろう?

**
スルタン・アハメット・モスク=通称ブルーモスクへ入場。近頃は外国人にもスカーフの着用を求めるようになってきた。内部は二万枚に及ぶイズニックタイルで飾られている。

***
アヤソフィアはまだ長蛇の列だったので、考古学博物館へ行く事にした。
トプカプ宮殿の壁沿いに古い木造の家を改造したペンションが並ぶ。藤がきれいですねぇ。

イスタンブルの象徴のひとつ、エルグヴァン=ハナズオウ(花蘇芳)も今が盛り


考古学博物館の三つの建物からなっているが、このタイル博物館の建物は、もともとメフメット二世がトプカプ宮殿完成まで住んでいた場所であるそうな。

庭にあるメドゥーサの頭についてはこちらに書いたことがあります。

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アヤソフィアへ入場
ニケの乱で崩壊した第二番目のアヤソフィアに使われていた石材も見える。イタリアのラヴェンナのモザイクに描かれたのと同じスタイルの羊たち
*****
イエレバタンサライ(地下宮殿)は、実は古代の貯水槽。ここにさっき考古学博物館で見たメドゥーサのあと二つがある。

*****
15時過ぎに一度ホテルへ戻る。シナン建築のひとつであるハマムへ行く人はこのタイミングでどうぞ。

あとの方々とフォーシーズンの四階にある屋上カフェでしばし休憩。
ここへ上がると、さあっと空が開けて、かつてここにあったビザンチン時代の宮殿からアヤソフィアを見ていただろう人々の視点が感じらる。すばらしい場所です。

近年見つかって発掘中の宮殿遺跡も見下ろせる。

フォーシーズンホテルの中庭も

******
17時からバスでホテルを出発、ガラタ塔へここからの眺めはいつもすばらしいが、最近の塔へ登る行列は長い。今日は三十分待ちだった。
この地区の路地を散策するのも、景色にまけないおもしろさ。今日(4月23日)はトルコの「こども日」だそうで、着飾った子供たちがモスクの前で記念撮影しているところに出会った

そのまま夕食へ、ガラタ橋の途中で降車。釣り人がひしめいている。「ガラタ橋で釣れなければ、その人は何も釣れない」と言われるのだとか。遠景にさっきまで上にいたガラタ塔が見える。


階段を降りると下はレストラン街前菜いろいろおいしくいただきお勧めの巨大なタルボット=ひらめ、こちらでは「楯の魚」というそうなみんなで分けるとこんな風に登場しました※手前

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イスタンブル旧市街・ど真ん中のホテルへ到着

2013-04-22 12:45:06 | トルコ
《手造の旅》おいしいトルコ10日へ出発!
トルコ航空の機内は、無料でネット接続が出来るようになっているなんて、知らなかった。スピードは遅いがメールの授受程度は問題なかった。

以前にもえらく高額で接続できる航空会社はあったが、今やどこでも無料接続が世の中の趨勢なのだとあらためて感じる。
**
成田でルフトハンザのストによる振り替え乗客を待ったので、二十分程度遅れたが、19時前にはイスタンブル空港を出る。

今回はアヤソフィアがすぐそばに見えるフォーシーズン・スルタンアハメット・ホテルを指定した。前回まではボスポラス海峡沿いのこちらもすばらしいホテルを選んでいたのだが、近年恐ろしいほどの交通渋滞になってきたので、旧市街観光場所に徒歩で行けるこちらのホテルに変えてみたのである。構えはごくシンプル。

威圧するような屈強なドアマンはいない、自然ににこやかにドアをあけてくれた。ウェルカム・ドリンクはしぼりたてオレンジ・ジュース
「何時に着くの?」と、直前に電話があった。

ここは、元監獄である。そんな雰囲気、ありますか?(笑)そうきいて、二の足を踏んだこともあったが、昨年実際に入ってみて全く問題ないと判断した。
なにより歩いてこのヒッポドロームの夜景がすぐ楽しめる立地は得難い。


夜の散歩の帰り、大好きなキョフテも食べてしまった(^^)
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パムッカレへ

2012-11-23 16:31:16 | トルコ
イズミールを出発し、一時間半ほどでレザーショップにお立ち寄り。ヨーロッパの皮革製品ブランドもトルコで作られていたりするから有名でなくても質は良い。まずは「こんなふうに着るんだよ」と、お手本のファッション・ショーをしてくれる。


次の休憩所ではトルコのゼリー菓子「ロクム」を売っている。

正午をずっと回ってお腹が減った頃、遠くにパムッカレの石灰棚が見えてきた。観光写真だとそこら一面が白い世界のようにみえるけれど、規模はこのぐらいなのです。

以前来た時からはだいぶ整備され、石灰棚のすぐ上にあったホテルは移転させられていた。バスでそのまま入ることができたヒエラポリスやネクロポリスの遺跡も、今は歩いて見学する。その方が良いですね。

石灰棚は、午後の傾きかけた光を浴びて美しい。
入ることが出来る場所はかぎられている。

欧米人はここで一日いっぱいゆっくりして石灰棚も遺跡も徒歩で楽しむ。崖の下から上に向けて一本のルートがあり、そこだけは靴を脱いで歩くことができる。
日本の一般団体は歩くのが好きではない。しばし「足湯」を楽しみましょう。

近くには遺跡が沈んでいる温泉もありますゆえ。


小松はせっせと古代の街を登って、ギリシャ風の劇場のところまでやってきた。夕日がとても美しい。こういう場所は古代ローマ世界にはよくあるが、何処で訪れてもすばらしい空間である。
演劇世界は古代にすでに完成されていたのだろう。
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