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近代革命の社会力学(連載第132回)

2020-08-05 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(2)帝政ドイツと社会民主党の台頭
 ドイツ革命において主導的な役割を果たした政治的アクターとしては、労兵評議会(レーテ)とドイツ社会民主党(社民党)の両輪があったが、中でも社民党は終始決定的な役割を果たした。その点、ロシアにおけるカウンターパートである社会民主労働者党が早期に分裂したうえ、最終的にその片割れであるボリシェヴィキの天下となったのは大きく異なる。
 ドイツ社民党の前身は、ドイツ帝国発足間もない1875年に結党された社会主義労働者党であった。この党は、マルクス主義を理念的な原則として採用しながらも、19世紀ドイツ(プロイセン)の代表的な社会主義者フェルディナント・ラサールの影響が強い社会主義政党であり、武装革命より議会参加による穏健な社会主義の浸透を目指す党であった。
 そうした綱領に沿って、1877年帝国議会選挙では12議席を獲得し、最初の一歩を築くが、危機感を抱いた当時の鉄血宰相ビスマルクが制定した社会主義者抑圧法により弾圧を受け、党勢は抑え込まれた。
 転機は、1890年の社会主義者抑圧法の失効である。これにより、党名も社会民主党に変更され、以後、党勢拡大期を迎える。時は帝政ドイツの資本主義的発展期であり、労働者人口の増大に伴い、労働運動も活発化する中、社民党は労働組合を支持基盤に取り込み、順調に党勢を拡大していった。
 その結果、第一次世界大戦前の1912年帝国議会選挙では、比較第一党の座を獲得するに至った。とはいえ、第一党が政権を担う議院内閣制が未整備な当時の帝国議会では、比較第一党でも、残余の保守派に妨害され、政権獲得には至らなかった。
 この状況を変えたのは、第一次世界大戦である。戦争が勃発すると、党は戦争支持の方針を採り、挙国一致での戦争遂行体制に同調する。これに対し、党内では反戦派が反発し、分派を形成、最終的には独立社会民主党の分離を招いた。また、反戦方針を採るロシアのボリシェヴィキとも袂を分かつこととなった。
 しかし、このような現実妥協主義的な社民党の路線は、政権参加の道を開いた。戦況が悪化し、敗色濃厚となる中、1918年10月、軍部による戦時独裁体制が解除され、帝国構成邦であるバーデンの君主大公家出身のマクシミリアン・フォン・バーデンが帝国宰相に就任すると、社民党も加わった中道政党との連立政権が発足した。
 バーデン宰相は貴族出自ながら、自由主義者として知られており、連合国の受けもよいため、つなぎ役として宰相に抜擢されたのであった。その点では、ロシア二月革命で登場した臨時政府首相リヴォフ公爵に似ているが、ドイツでは革命によらずして自由主義者が政権に就いたのである。
 こうして、議会政治において着実に地歩を築いてきた穏健で現実妥協主義的な社民党が、革命によることなく、平和裏に自由主義的な政権に参加したことは、間もなく勃発するドイツ革命の展開と帰結にも大きく影響することになったであろう。

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