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近代革命の社会力学(連載第135回)

2020-08-17 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(5)急進派の蜂起と敗北
 いったん和議が成立した1918年末の人民海軍分隊事件は、年明けまで尾を引いた。正規軍との衝突で海軍分隊側に死者が出たことに対して反発する民衆の抗議が活発化したほか、独立社会民主党系の警察長官が突然罷免されたことに対する労働者が武装蜂起する事態となった。
 この動きの背後には、社民党から分派した急進的なマルクス主義系の政治団体スパルタクス団の存在があった。スパルタクス団は、1918年末に共産党が結党された際に主導的な役割を果たし、少なくとも結党初期のドイツ共産党=スパルタクス団と言ってもよかった。
 スパルタクス団の結成は第一次世界大戦中の1915年に遡り、当初は社民党主流派の参戦支持方針に反対した反戦派の集団であった。そこから急進的な革命集団へと発展していった点では、ロシアのボリシェヴィキに匹敵するが、ボリシェヴィキを率いたレーニンの少数精鋭による革命的前衛理論とは対立し、労働者階級によるゼネストを通じた自然発生的な革命を待望するローザ・ルクセンブルクの理論に基づいていた。―レーニンとローザの理論的な対立関係については、拙稿参照。
 実際、1919年1月7日以降の労働者大衆による大規模なゼネストは、スパルタクス団の理論が試される好機ともなった。共産党と独立社民党は革命委員会を立ち上げてゼネストを後押ししたが、問題はこの革命委員会はロシア十月革命当時の軍事革命委員会と赤軍のような権力掌握のための戦略と武力を備えていないことであった。
 一方、対する社民党の臨時政府・人民委員会議側は、すばやい戦略的な動きを見せた。首班エーベルトは、レーテ革命当時、ミイラ取りがミイラになった立役者から今や臨時政府国防相となったグスタフ・ノスケに武力鎮圧を命じた。ノスケは、復員・除隊した旧帝国軍兵士らが結成した民兵組織・ドイツ義勇軍を援助し、束ねていたからである。
 急進派の蜂起に対しては、このドイツ義勇軍がフル稼働した。正規軍に近い装備を持つ義勇軍がほぼ丸腰の労働者を鎮圧することは容易であった。掃討作戦は一週間ほどで完了し、共産党の共同指導者であったローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトも捕らえられ、残酷に殺害された。
 こうして、急進派による1919年1月の蜂起はあっさり鎮圧され、同年2月にはエーベルトが初代大統領に就任した。その後、同年3月にベルリンで再びゼネストと人民海軍分隊による蜂起があったが、これも義勇軍によって潰された。
 共産党は新たな指導者パウル・レヴィの下で武装蜂起に反対していたが、少なからぬ党員が蜂起に参加し、党の足並みは乱れた。その後、党内反議会主義派が共産主義労働者党として分離するなど、ドイツ共産党はロシアのそれのように統一勢力とはならなかった。
 このように、ドイツ革命では急進派が敗北し、白色テロを阻止することはできなかった。その要因として、スパルタクス団のような急進派の戦略の欠如とともに、急進派自体が統一されていなかったこともある。
 実際、知識人中心のスパルタクス団に対して、労働運動から出たより戦略的で秘密主義的な革命代表団(革命オプロイテ)があったが、両者は互いを非難し合う対立関係にあり、最後まで統合されることはなかった。

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