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近代革命の社会力学(連載第134回)

2020-08-12 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(4)レーテと社民党のせめぎ合い
 レーテ革命の結果、帝国政府が瓦解した中央では、今や中心政党となった社会民主党のフリードリヒ・エーベルト党首を首班とする臨時政府・人民委員会議が設置された。労働組合幹部出身のエーベルトは穏健派の代表格であり、元来レーテに対して否定的で、レーテの武力鎮圧を企てたこともある人物であった。
 そのため、急進派は人民委員会議とは別に、レーテを中心とする革命政権を構築すべく、レーテ中央組織としてレーテ執行評議会を樹立し、これを最高機関と位置づけ、地方組織も整備していった。ただし、レーテも一枚岩ではなく、穏健派と急進派とに分裂していた。
 レーテ執行評議会は、主に独立社会民主党急進派の一派である革命代表団(革命オプロイテ)が主体となって結成されたものであるが、元来、第一次大戦反戦派が分派した独立社民党自体が分裂し、主流派は社民党とともに人民委員会議に参加するなど、股裂きになっていた。
 一方、レーテ運動が水兵反乱に発した経緯から、海軍省に設置された海軍53人委員会と呼ばれる独立分派的な水兵レーテが強い発言力を持って海軍軍令部を統制し、作戦遂行にも関与する権能を持つに至っていたが、兵士の間にはこうした水兵の優位に対する反発もあった。
 これに対して、人民委員会議側も革命の急進化を阻止すべく、レーテに対抗しようとしていた。1918年11月の段階で、労組と財界の間の労使協調を目的とする中央労働共同体の協定を締結したほか、正規軍との間でも旧帝国軍組織の温存と秩序回復への協力を約する協定を結んだ。
 こうして、革命によりとりあえず人民委員会議とレーテの二重権力体制が出現した構図は十月革命後のロシアとも類似するが、大きな違いは、ドイツの人民委員会議は穏健派社民党が全権を握っており、各地のレーテ内でも同党の影響力が強かったことである。
 そのため、1918年12月16日に開催された初のレーテ全国大会では、国民議会が開設されるまでの間、最高権力を人民委員会議に委ねることや、海軍53人委員会の権限を縮小することなど、社民党寄りの決議が採択され、改めてレーテ中央機関として、共和国中央評議会が設置された。
 しかし、独立社民党はこれを不服として、中央評議会への不参加を決めたため、中央評議会は社民党系で固められる結果となった。さらに、同党は年明けの1919年1月19日に国民議会選挙を前倒しで実施するという大会決議にも反対して人民委員会議を離脱、党内急進派が改めてドイツ共産党を結党し、年明け総選挙のボイコット方針を決めた。
 大会決議によれば、共和国中央評議会は人民委員会議を監督する議会的な権限を持つことになっていたが、レーテに否定的なエーベルトは中央評議会の存在を軽視したため、すでに内部分裂をきたしていたレーテの権力は急速に形骸化していった。
 唯一レーテに譲歩せざるを得なかったのは、兵士から提出されていた軍内階級制の廃止要求であったが、この急進的な組織改革策は先の協定に反するため、軍上層部の反対により、要求事項の実現は延期となった。
 こうした革命権力をめぐるレーテと社民党のせめぎ合いは、1918年のクリスマスイブ、人民海軍分隊を名乗る急進的な兵士集団と正規軍部隊の武力衝突事件に発展する。双方に死者を出したこの事件は、いったん正規軍が撤収し、和議が成立したが、事件の処理をめぐり、年明けに革命の帰趨を決する大規模な騒乱が発生することになる。

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