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近代革命の社会力学(連載第131回)

2020-08-03 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(1)概観
 20世紀初頭の欧州には、ロシアと並ぶ保守的な帝国として、ドイツがあった。その成立はロシアよりはるかに新しく、1870年代のことにすぎず、長い封建的領邦制の歴史を引いて、多数の君主国から成る連邦制という不安定な構造ではあったが、新生ドイツ帝国はその実質的な主宰国であるプロイセンを中心に、19世紀末には新興資本主義帝国として台頭していた。
 そうした中で、第一次世界大戦では敵国となったロシアに勃発した革命は、ボリシェヴィキ政権の新たな外交方針により、早期に対ロシア講和条約の締結に漕ぎ着けた点ではドイツに軍事的なメリットももたらしたのではあるが、内政面では、社会主義革命の波及を警戒すべき事態であった。
 しかし、大戦での敗北は、革命の機運をもたらした。とりわけ、敗色濃厚な中、徹底抗戦に固執する海軍に対する水兵の反発が強く、水兵の反乱が革命の導火線となった。ロシア十月革命に遅れること約一年、1918年11月のことである。こうした兵士の反乱に労働者が加勢した対抗権力として、労兵評議会(レーテ)が各都市に拡散していく。
 ただ、連邦国家であるゆえ、一挙に連邦全体の革命へ進展したわけではなく、まずは南部の大邦であるバイエルンで地方的な革命が先行し、国王が退位した。これを起点として、革命は帝都ベルリンにも広がり、空前規模のゼネストに発展、ついに皇帝ヴィルヘルム2世(プロイセン国王兼務)も退位した。総本山が崩れたことで、ドミノ倒し的に全連邦で君主が相次ぎ退位する波が続いた。
 この一連の革命過程は、如上のレーテとともに、マルクス主義政党である社会民主党が主導していたが、ドイツの社会民主党は、ロシアのボリシェヴィキのような急進派ではなく、穏健派が主導していたことが対照的である。一方、王党派は弱く、政権を担える力量を持たなかった。
 その点、社会民主党急進派もロシアのボリシェヴィキの革命的前衛論や革命的独裁論には批判的で、民衆の蜂起やゼネストの意義をより重視する立場が支配的であった点に違いがあり、ボリシェヴィキのような「戦闘術」に基づく戦略的な軍事行動をとることはなかった。
 そのため、急進派の蜂起は戦略を欠いた自滅的なものとなり、革命政府自身によって苛烈に武力鎮圧されたため、ドイツ革命はロシアのように段階的な革命プロセスをとることなく、比較的短期間で一回的に収斂し、明けて1919年1月までには鎮静化した。ただし、バイエルンでは、共産主義者による革命的蜂起と政権樹立があったが、これも同年5月までに鎮圧された。
 この結果、ドイツ革命は1919年1月の議会選挙と2月のワイマールにおける議会招集を経て、いわゆるワイマール共和国の樹立に結実する。ワイマール共和国の性格付けについては、後により詳細に見るが、それは基本的にリベラルかつ社会権の保障を伴うブルジョワ民主主義の共和制であり、ロシア十月革命後の社会主義共和制とは袂を分かつ道であった。
 このような構制の共和制国家は当時としては画期的で、その憲法(通称ワイマール憲法)とともに、新しい共和革命の一つの範例を示したが、国内的には大戦での敗戦処理を国辱とみなし、帝国の再生を目指す保守派、革命の進展を望む急進派の双方から反発される挟み撃ちに遭い、政情不安が恒常化したうえに、敗戦後の賠償問題や不況対策でもつまづき、瓦解の道を歩むのであった。

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