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終戦75周年に寄せて

2020-08-15 | 時評

終戦75周年という歳月を「まだ」と見るか、「もう」と見るか、微妙な歳月である。75周年と言えば、「もう」三つの四半世紀をまたいだことになる。終戦時20歳の若者も御年95歳。しかし、「まだ」一世紀=100年は経過していない。

「まだ」と見るなら、世界大戦は完全に過去のものとなっておらず、いつでも再発の恐れがあるから、大戦の惨禍を語り継ぎ、銘記しなければならないことになる。実際、兵士として第二次大戦に参加した人も少ないながら世界中に存命しているから、「まだ」という面は否定できない。

一方で、「もう」という面も年々強くなっている。実際、大国同士が国力を総動員して総力戦を展開する世界大戦の危険性は、この75年でゼロとはいかないまでも、かなり低下している。

その秘訣として、現在の国際連合を中心とする国際秩序がまさに国連という第二次世界大戦の戦勝国主導で作られた戦争抑止機構によって支えられており、この枠組みが次第に脆弱化、外交儀礼化しながらも持続しているおかげで、世界大戦を抑止し得ていることは否定できない。

とはいえ、こちらも75周年を迎える国連は、旧連合国時代に共闘し、核兵器保有特権を持つ米英仏露中の五大国が、米英‐仏vs中‐露に大きく二分しつつ、核で威嚇牽制し合うことで大戦を抑止している状態である。その点、「現実主義者」が常套句としている「核の抑止力」も、あながち虚構ではない。

もう一つの「もう」として、戦争の仕方が大きく変容したことである。徴兵された兵士が地上で撃ち合って戦うという戦法はもはや過去のものであり、現代の戦争の中心はミサイル攻撃や無人標的攻撃を含む空中戦である。徴兵制を持つ諸国はまだ少なくないが、空中戦では大量の素人兵は必要なく、訓練された精鋭の職業的兵士で足りる。

その結果、戦争を徴兵される立場で我が事として実感することが困難になり、他人事となりつつある。戦争が、兵士として参加するものから視聴者として観覧するものへと変化しているのである。加えて、遊興の戦闘ゲームの影響からか、戦後世代の間では、戦争をゲーム感覚でとらえるような見方もなくはない。

あと四半世紀進めば、戦後100周年。その時まで国際連合がいくらかなりとも実効性ある形で維持されているかどうかは予測できない。100周年には、第二次大戦参加者も死に絶えているだろう。

その暁には、大戦の記憶はすっかり風化し、再び大戦が勃発するのか。それとも、全く新しい恒久平和の機構が出現しているだろうか。後者を待望するが、楽観はしていない。一つ確実なことは、戦後100周年には筆者も当ブログも存在していないだろうということだけである。

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