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近代革命の社会力学(連載第137回)

2020-08-21 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(7)ワイマール共和国の保守的転回
 1918年11月に発したドイツ革命は、翌19年5月、バイエルン革命が鎮圧された時点でひとまず収斂し、エーベルト初代大統領を中心とする新体制が正式に始動するが、その後も革命の余波は続いていく。
 「ワイマール共和国」と通称される新体制(正式国名・ドイツ国)は、一般にはリベラルな民主共和政の先例とされているが、実際は、見たように、民兵組織・義勇軍を使った白色テロの流血と屍の上に成立した体制であった。
 革命の進展が暴力的に阻止されたために、帝政は廃されたとはいえ、ドイツ帝国時代の地主貴族ユンカーや独占資本家らは温存され、「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。」という社会権を保障する憲法の規定にもかかわらず、労働者階級の地位は向上しなかった。
 そのうえ、穏健な社民党主導でスタートしたため、イデオロギー的にも中道主義的となり、保守反動派からは「左翼」とみなされ、急進革命派からは「右翼」とみなされるという中途半端さがあり、体制に反発する両派の挟撃を常に受けた。
 社民党もすぐに幻滅され、1920年6月総選挙では比較第一党を維持しながらも、大幅に議席を減らし、下野した。代わって、まさしく中道政党である中央党が政権党として登場し、エーベルト大統領が在任中死去した1925年を越えて27年まで、中央党中心の政権が続くが、この間、政情は常に不穏であった。
 右派はワイマール共和国が1919年6月に締結したベルサイユ条約を国辱とみなし、攻撃していた。実際、条約で課せられた海外領土放棄と高額の戦時賠償金がドイツの国力を低下させていたことはたしかであった。右派からは、そうした国辱の責任をユダヤ人に帰せしめようとする論調が強まり、元来からくすぶっていた反ユダヤ主義の風潮を助長した。
 この潮流からは、後に体制化するナチス党(民族社会主義労働者党)が現れる。もっとも、1919年に結党されたばかりの同党はまだ議会外の泡沫政党にすぎなかったが、1923年、かれらは「ドイツ闘争連盟」の名でミュンヘンにて一揆を起こした。この拙劣な蜂起は直ちに鎮圧され、ヒトラーら一揆参加者は投獄されるも、ナチス党の存在を世に示す最初の宣伝効果は果たした。
 一方、ドイツ共産党は20年6月選挙で4議席を獲得したものの、議会では少数政党にすぎなかった。共産党も「反帝国主義」という観点からベルサイユ条約に反対しつつ、武装蜂起に消極的なパウル・レヴィを追放し、コミンテルンを通じてソ連と連携しながら、21年3月と23年10月に武装蜂起を計画したが、いずれも失敗に終わった。
 エーベルトの没後、代行者をはさんで正式に二代目大統領となったのは、第一次大戦の英雄で参謀総長も務めたユンカー貴族出自の老軍人パウル・フォン・ヒンデンブルクであった。ワイマール共和国のトップにユンカー貴族が就いたことで、共和国の革命性はほぼ消失し、以後は保守的転回を遂げることになる。
 ちなみに、最終的にワイマール共和国に引導を渡し、ヒトラー率いるナチスの「第三帝国」の出現を許したのも、首相に任命したヒトラーの要請で大統領緊急権を発動し、憲法を停止したヒンデンブルクであった。

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