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戦後ファシズム史(連載第18回)

2016-02-02 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐6:パキスタンのイスラーム軍政
 戦後の南アジアでは、中軸国のインドが非同盟中立を旗印に独自の社会主義的な路線を歩んだため、米国の息は元英領インドとして一体的ながら、インドとは対立的なイスラーム系の隣国パキスタンにかかることとなった。
 パキスタンでは1947年の建国以来、親英米路線が既定となっており、54年に禁止された共産党の力は弱かった。従って、反共主義を前面に押し出す政権は70年代までは存在しなかった。
 潮目が変わるのは、67年にズルフィカール・アリ・ブットを中心に人民党が結党されてからであった。人民党は共産主義政党ではないが、短期間でパキスタンにおける代表的な左派政党となった。ブットは60年代には外相も経験したベテランの政治家であり、反インドのナショナリストでもあった。彼は71年のバングラデシュ独立戦争とそれに続く第三次印パ戦争での敗北という国難の中で、大統領に就任した。
 71年から73年までは大統領、73年以降は首相として政権を率いたブットは左派色を前面に出し、主要産業の国有化、農地改革、労働者の権利拡大など左派の定番的な政策を次々と打ち出した。その一方で、インドに対抗するため、中国の協力を得て核開発にも先鞭を着けた。このようなブット政権は左派ナショナリズムの性格を帯びていた。
 しかし、ブットの性急な政策的路線転換に反発が強まり、野党の抗議行動により混乱が広がる中、77年の総選挙では人民党が圧勝するも、混乱はかえって拡大し、騒乱状態に陥った。ここで、ムハンマド・ジア‐ウル‐ハク陸軍参謀総長に率いられた軍部がクーデターを起こし、ブット政権を転覆したのであった。
 ジア将軍はブットによって重用されてきた軍人であり、そうした人物が裏切りの形で選挙により成立した左派政権を転覆した経緯は、南米チリのピノチェト将軍による73年クーデターにも類似していた。ジアは戒厳司令官として全権を掌握し、ブットを政治裁判にかけ処刑した。それに続いて左派に対する不法な手段による弾圧が断行された点でも、チリの経緯と似ている。
 この77年クーデターに米国が関与した証拠はないが、クーデターの翌年、隣国アフガニスタンで親ソ派の社会主義革命が発生したことで、パキスタンは米国にとっての反共基地の意義を持つことになった。実際、ジア政権は軍諜報機関(統合諜報局)を通じてアフガニスタンの反革命武装勢力ムジャーヒディーンを援助しつつ、その見返りとして米国からの経済援助を受け、経済成長を軌道に乗せることにも成功した。
 国内的には、イスラーム法(シャリーア)を初めて本格的に導入して、イスラーム主義政策を追求した。ただし、最期まで擬似ファッショ的な軍事政権の形態を維持したジア政権はいわゆるイスラーム原理主義というよりも、イスラーム法を全体主義的統制の手段として利用したもので、その意味ではイスラームが擬似ファシズムと結びついた最初の例と言えるかもしれない。
 経済政策はジアにとって二次的関心の対象にとどまったが、ブット時代の社会主義的な政策は漸次的に撤回され、政権後期の84年布告をもって民間資本の開放、市場経済化への道筋がつけられた。
 80年代半ばに入り、民主的な総選挙の実施への要求が高まると、84年に信任投票を実施したうえ、翌85年には政党によらない官製選挙を実施し、傀儡的な文民首相を任命したが、88年には罷免した。同年、11年ぶりとなる総選挙が布告されたが、その実施前の88年8月、ジアは飛行機事故により不慮の死を遂げた。
 予定通り実施された88年総選挙では、故ブットの娘ベナジル・ブットが率いる人民党が圧勝し、べナジルがパキスタン及びイスラーム圏初の女性首相に就任するという一種の革命的な様相を呈した。
 こうしてジア軍事政権は大統領の不慮の死を機に終焉したが、その負の遺産はアフガン内戦終結後、パキスタン領内に流入した旧ムジャーヒディーン残党の過激化、そして現在もかれらを援助しているとされる軍統合諜報局の隠然たる権力として残されている。


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