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戦後ファシズム史(連載第47回)

2016-07-20 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3‐1:スーダンのスンナ・ファシズム
 イスラーム教スンナ派はシーア派のような最高指導者の概念を持たないため、イラン革命後のホメイニ指導体制のようなファッショ体制は成立しにくいのであるが、ちょうどホメイニが没した1989年、アフリカのスーダンで、スンナ派系のファッショ体制が成立を見た。
 この体制は、同年に起きた軍事クーデターを契機とするもので、クーデターそのものの指導者はオマル・アル‐バシール将軍であったが、理論的・精神的指導者はイスラム主義政治組織の国民イスラーム戦線を率いるハサン・トラービーという二頭体制であった。
 国民イスラーム戦線自体は1960年代に結成されたムスリム同胞団系の学生組織を前身とするが、その性質は大衆組織というより、政府・軍などの国家機構に浸透して上からのイスラーム化を図る秘密結社的なものであった。89年軍事クーデターもそうした浸透戦略の結果である。
 当初は形式上軍事政権であり、先行事例で言えば77年から88年まで続いたパキスタンのジア軍事政権と類似していたが、ジア政権の重点が冷戦期の反共にあり(反共ファシズム)、イスラーム化は社会統制の手段的色彩が強かったのに対し、バシール‐トラービー政権にあっては、全体主義的なイスラーム化が目的的に志向されていた。
 当時、スーダンは北部のアラブ系主体のイスラーム勢力と南部の非イスラーム系諸部族の間で内戦状態にあり、軍事クーデターは南部も包括したイスラーム化の徹底を図る北部内の強硬派が仕掛けたものであった。結果として、内戦は激化し、北部でも世俗主義者らの大量パージが行なわれた。
 この体制は、アル‐カーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンを庇護するなど、90年代半ば頃までは、スンナ派における反米イスラーム主義の拠点とみなされたため、アル‐カーイダの犯行とされる98年のケニア・タンザニアの両アメリカ大使館爆破事件に関連し、米軍による首都ハルツーム空爆を招いた。
 そうした中、アル‐バシールは一つの方策転換を決断する。国民イスラーム戦線を乗っ取る形でこれを政党組織としての国民会議に衣替えし、99年には強権を発動してトラービーを追放したのである。これは欧米との関係改善を狙い、形式上の民政移管を実行する過程での軌道修正であった。
 これによって、アル‐バシール政権は形の上では議会政治の体裁を整えたのであるが、実態としてアル‐バシールの独裁体制に変更はなく、軍政擬似ファシズムを管理ファシズムに移行させたにすぎなかった。
 この修正体制の下で発生した人道危機が、2003年頃からのダルフール紛争である。これは従来の南北間内戦と交錯する形で、西部ダルフール地方のイスラーム教徒諸部族間で発生した民族紛争にアル‐バシール政権が介入して起きた人道危機である。
 政権はアラブ系民兵組織に加担する形で民族浄化を実行し、30万人以上が殺害されたとも言われるが、その全容はなお不明である。この件に関連して、アル‐バシール大統領は2009年、国際刑事裁判所から人道に対する罪等の容疑で逮捕状を発付される事態となったが、現時点でも執行されていない。
 他方、懸案の南北内戦は2005年の内戦終結を経て、2011年には南部が南スーダン共和国として独立する運びとなったが、その後も南北間での国境紛争が断続的に発生するなど不安定である。
 アル‐バシール政権は、現職大統領の国際訴追という異例の事態を経ても、現在に至るまで強力な支配力を保っており、近代スーダン史上最長期政権の記録を更新中である。近年は、中国との結びつきを強め、石油開発で財政経済を支えており、開発ファシズムの色彩も帯びている。

[追記]
アル‐バシール政権に対しては、2018年から大規模な民主化デモが勃発し、これを受けた軍部が2019年4月にクーデター決起し、アル‐バシールを辞職に追い込み、拘束した。最大権力基盤であった軍部に裏切られた形である。結局のところ、アル‐バシールは、30年がかりでも軍部に依存しない本格的なファシズム体制を確立できなかった結果であろう。ちなみに、クーデター後の軍民合同の暫定政権は、2020年2月、アル‐バシールの国際刑事裁判所への身柄引き渡しに同意した。


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