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「女」の世界歴史(連載第23回)

2016-05-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

③オスマン帝国の「女人政治」
 16世紀以降、イスラーム世界の覇者となったオスマン帝国では、女性スルタンこそ輩出されなかったものの、16世紀から17世紀にかけて、スルタンの夫人や生母が権勢を持つ「女人政治」の時代が出現した。
 それは、この時期、後見役を必要とする若年の弱体なスルタンが続いたこともあるが、そればかりでなく、女性たちがその権力基盤としたハレムが、帝国の領域拡大に伴い大規模化していたこともあると考えられる。
 オスマン帝国のハレムは、人身売買によって帝国版図・勢力圏の東欧・カフカース地域から連行されてきた女性奴隷たちが一定の教養を授けられた後、侍女として入職し、やがてその一部がスルタンの寵姫に抜擢される仕組みであった。
 そのため、彼女らの多くは人種的に白人コーカソイドであり、スルタンの寵姫となって子女を産むことで、オスマン家が本来のモンゴロイド系からコーカソイド化され、ひいてはトルコをヨーロッパ化させていく触媒的な役割をも担っていた。
 オスマン帝国の手が届く東欧・カフカース地域の女性たちにとっては、いつ帝国に捕らわれ、奴隷化されるかわからない恐怖と隣り合わせであったと同時に、幸運に恵まれれば、ハレムからスルタンの寵姫に栄進する階級上昇のチャンスもあった。
 とはいえ、スルタンの寵愛を得ても、彼女らは奴隷身分のままで、スルタンの正式な妃となることはできなかった。そうした状況を変えたのは、オスマン帝国全盛期を築いたスレイマン1世の第一夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)である。
 ヒュッレムはポーランド出身のスラブ系出自と言われ、やはり奴隷として売られてきた一人である。彼女は慣例を破って、スルタンの正式な夫人の地位を得ることに成功し、スルタンとの間に五男一女をもうけ、その寵愛を独占した。同時に、これも慣例を破り、スルタンを補佐して政治に介入した。そのため、ヒュッレムをもって「女人政治」の創始者とみなすことが多い。
 また大宰相に嫁いだ彼女の娘ミフリマーも、母とともに政治に関与したと見られる。母娘はスレイマン1世の後継問題でも暗躍し、ヒュッレムの息子たちの中から次期スルタンを出すように画策、別の妃が産んだ最年長の王子を処刑させることにも成功した。その結果、後継者となったのが三男のセリム2世であった。
 しかし、セリムは政務に無関心・無能であったため、政治の実権はセリム2世の寵愛を受けて後継者のムラト3世を産み、ヴァリデ・スルタン(母太后)の称号を得て摂政となったヌールバヌの手に委ねられた。彼女はエーゲ海のパロス島を領したヴェネツィア貴族の出と言われ(異説あり)、やはりオスマン帝国に捕らわれ、ハレムに売られてきた。
 彼女は祖国と目されるヴェネツィアとの友好関係を重視し、一貫して親ヴェネツィアの外交路線を取った。また同時代フランスの女性実権者カトリーヌ・ド・メディシスと通信し合っているのも、同じイタリア出身者の好だったかもしれない。
 ムラト3世時代には、ヌールバーヌと同じヴェネツィア貴族の縁戚と思われるサフィエがヴァリデ・スルタンとして権勢を誇った。サフィエの後も、嫁のハンダン・スルタン、その嫁キョセム・スルタン、さらにその嫁トゥルハン・スルタンと実に四代にわたり、姑嫁関係にあるヴァリデ・スルタンによる女人政治が続いた。
 わけてもオスマン帝国における「女人政治」の頂点を極めたのは、義母のキョセムと権力闘争を繰り広げた末に彼女を暗殺し、メフメト4世の母后として1651年から65年まで摂政として実権を持ったトゥルハンである。
 彼女はウクライナ人またはロシア人と目され、ハレム入りした経緯は先行者たちと大差ない。しかし、彼女は息子のメフメト4世から正式に共同統治者として認められ、事実上はオスマン帝国史上唯一の女王(女性スルタン)とも言うべき権力を持った点で、先行者たちを上回っていた。とはいえ、為政者としての彼女の能力はその権力の大きさには見合っていなかった。
 トゥルハンの時代は、クレタ島の領有をめぐるヴェネツィアとの20年以上に及ぶ戦争に直面していた。最終的にオスマン帝国は勝利するものの、多額の戦費から財政問題も生じていた。そうした中、1656年にアルバニア系キョプリュリュ家のキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就任すると、トゥルハンは事実上の権力移譲と引退を余儀なくされた。
 オスマン帝国における「女人政治」は制度的なものではなく、慣習的なものであるので、それがいつ終焉したか明言することは困難だが、トゥルハン以降、ヴァリデ・スルタンの権勢は低下していく。
 元来、女権忌避的なイスラーム社会では、女性の政治関与は好感されておらず、先のヒュッレム・スルタンなどは「ロシアの魔女」呼ばわりされたことすらあった。また「女人政治」の時代には、ハレムが権力闘争の場と化し、当事者の不審死も相次ぐなど、政情不安のもとともなったのである。
 一方で、オスマン帝国の全盛期にヨーロッパ出身のハレム出身女性たちが巨大化した帝国の政治外交を管理し得たことは、当時の歴代男性スルタンたちの無力さを考え合わせると、帝国の持続性を確保するうえで鍵となっていたとも言えるだろう。


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