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「女」の世界歴史(連載第25回)

2016-05-17 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

⑤朝鮮王朝の女性権勢家たち
 14世紀末に成立した朝鮮王朝は仏教を排し、儒教を国教・国学に据えたことから、以後の朝鮮では女権は著しく制約され、女性の政治関与は本来タブーであった。しかし、王朝存続を保証するため、前国王の后(通常は現国王の生母)が大妃として年少の国王を後見して実権を握る中国的な垂簾聴政が15世紀後半以降、慣習化された。
 こうした垂簾聴政は臨時的とはいえ、事実上の公式的な制度であったため、垂簾聴政を取る大妃は女傑というより正式の摂政に近い存在であったが、これとは別に、正式の地位を持たずに政治介入を企てた女傑も存在する。しかし、こうしたタブー破りの女傑の政治介入はたいてい悪政を結果したため、これらの女傑は「悪女」視されることが多い。
 その典型例として、15世紀末に出た張緑水がいる。妓生出身の彼女は第10代燕山君の側室として王の寵愛を独占し、宮中で権勢を持つようになり、身内を栄進させる縁故政治を展開したほか、暴君と評された夫の燕山君に勝るとも劣らぬ横暴な振る舞いを見せた。結果として、燕山君が廃された宮廷クーデター(中宗反正)により、処刑された。
 次いで、16世紀中ばには、弱体な歴代王の下で女性が政治を主導した「女人天下」と呼ばれる女性政治の時代が現われるが、その中心人物が鄭蘭貞である。彼女は第11代中宗の外戚尹氏の妻として中宗晩年から夫とともに国政に介入し、中宗没後に垂簾聴政を行なった尹氏出身の文定王后の側近として権勢を誇ったが、王后の没後、親政を試みた第13代明宗の改革策により追放・問責され、自殺に追い込まれた。
 16世紀前半には朝鮮王朝史上燕山君と並び、廟号・諡号を与えられない暴君とみなされてきた第15代光海君の女官となった金介屎(金尚宮)が知られる。詳しい出自や半生も不明だが、金尚宮は光海君の父である第14代宣祖の寵愛を受け、光海君の即位に尽力し、その後も、光海君のライバルだった異母弟永昌大君の処刑にも関与したと言われる。
 しかし、光海君が廃された宮廷クーデター(仁祖反正)により、追放・処刑された。金尚宮も前代の張緑水と同様の運命をたどったわけだが、今日では光海君の治世が再評価されつつあるのに対応し、その治世を後宮から支えた金尚宮についても再評価がなされる可能性はある。
 しばしば通俗的に、張緑水、鄭蘭貞と並ぶ「朝鮮三大悪女」に数えられるのが、第19代粛宗の後宮で、一時は王后でもあった張禧嬪である。彼女は、中人と呼ばれる中産階級の出自から女官となり、やがて最高位の側室たる嬪に昇格する。
 彼女は粛宗時代に激化していた宮中での西人派と南人派の二大党争に絡み、南人派の党首に押し上げられ、世子を産めなかった西人派の仁顕王后を廃位し、自ら継妃に納まる策動を展開した。だが、南人派の増長を懸念した王自身の介入により、廃位され、最終的には仁顕王后の死を呪詛したとする罪で処刑された。
 野心的な策動家ではあるが悲劇的な刑死を遂げた張禧嬪は朝鮮支配階級の両班より低い階層に出自した朝鮮王朝史上唯一の王妃となり、世子で後の第20代景宗を産むという異例の栄進でも注目されてきた人物でもある。
 張禧嬪を最後に、朝鮮史上女傑と目される女性権勢家は輩出されなくなる。おそらく粛宗以降、短命に終わった景宗をはさみ、もう一人の息子(景宗異母弟)である第21代英祖、英祖の孫に当たる第22代正祖と強力な王による長期安定治世が18世紀を通じて続き、女傑の政治介入の余地が封じられたためであろう。


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