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戦後ファシズム史(連載第35回)

2016-05-10 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

7:ルワンダ内戦と人種ファシズム
 1990年代の旧ユーゴ内戦と同時並行的な事象として、アフリカの小国ルワンダで発生した内戦がある。この内戦渦中では、最大推計で100万人(国民の約20パーセント)と言われる大虐殺が生じ、世界に衝撃を与えた。
 ルワンダ大虐殺という事変そのものについては、20年以上を経過した現在、まとまった資料も存在しているため、それらに譲るとして、ここではそのような事変の根底にあった人種ファシズムについて取り上げる。ルワンダで極めて悪性の強いファシズム現象が発生したことには歴史的な淵源がある。
 ルワンダにおける民族構成は、他のアフリカ諸国とは異なり、大多数をフトゥと呼ばれる民族が占め、少数派としてトゥツィとトゥワが存在するという比較的単純な構成である。独立王国時代には少数派トゥツィが王権を保持しており、続くベルギー植民地時代にもトゥツィが優遇され、中間層を形成する社会構造が出来上がっていた。
 ベルギーがトゥツィを優遇するに当たっては、「トゥツィ=ハム族仮説」なる人種的優越理論を根拠にしたとも言われるが、それだけではなく、当時の支配層がトゥツィ系であったため、それをそのまま植民統治にも平行利用したとも考えられる。
 このような少数派優位の構造が覆るのは、独立直前の1961年に起きたフトゥ系による共和革命以降であった。この革命は当時トゥツィ支配層と衝突し、フトゥ系支持に転じていた旧宗主国ベルギーの承認のもとに実行されたものだった。
 革命により初代大統領に就いたグレゴワール・カイバンダは反トゥツィ政策を実行し、その政権下では多数のトゥツィが殺害され、あるいは難民として隣国へ逃れた。その際、フトゥ支配層は先の「トゥツィ=ハム族仮説」を逆手に取り、トゥツィを「侵略者」に見立て、仮説上の原郷であるエチオピア方面へ送還すべきことを主張した。言わば、差別者と被差別者が攻守逆転し、旧被差別者であったフトゥが反転的な差別に出た形であり、この力関係の逆転は「フトゥ・パワー」と呼ばれる優越思想を生み出した。
 このフトゥ主導共和体制は、73年の軍事クーデターでカイバンダ政権を転覆したジュベナール・ハビャリマナによって、若干の軌道修正を施された。彼はフトゥ・トゥツィ両族の融和を一定進める一方で、経済開発を重視する政策を採り、開発国民革命運動なる反共右派政党を政治マシンとして、91年に複数政党制に移行するまで一党独裁支配を維持する。この間のハビャリマナ体制は開発独裁的な性格を伴ったが、それは未だファシズムの域には達していなかった。
 しかし、こうしたハビャリマナの融和的姿勢に反発したフトゥ強硬派の間では、より過激な「フトゥ・パワー」の思潮が高まった。その集約が1990年にフトゥ系雑誌に掲載された「フトゥの十戒」なる言説であった。トゥツィをルワンダ社会から系統的に排斥すべきことを主張するこのプロパガンダは、ナチスの反ユダヤ主義をより通俗化して応用したような差別煽動言説としてフトゥの間で急速に普及した。
 一方では、ウガンダに支援されたトゥツィ系反政府武装組織・ルワンダ愛国戦線が87年に結成され、90年以降政府との間で内戦状態となっていたが、92年に和平が成立し、翌年には連立政権が発足する運びとなった。しかし、フトゥ強硬派は反発を強めていた。
 そうした中、94年にハビャリマナ大統領が同様の民族構成を持つ隣国ブルンディのンタリャミラ大統領(フトゥ系)とともに搭乗していた航空機が撃墜され、両大統領が死亡した。この暗殺事件の真相は不明であり、ルワンダ愛国戦線犯行説とフトゥ強硬派軍部犯行説の両説が存在する。
 いずれにせよ、この事件を最大限に利用したのは、フトゥ強硬派であった。近年の調査研究によると、かれらはあたかもナチスのホロコーストのように、極めて計画的・組織的にトゥツィ絶滅政策を立案・実行しており、ルワンダ虐殺が自然発生的な民衆暴動ではなかったことが判明している。
 ただし、ナチスのような絶滅収容所での秘密裏の抹殺ではなく、ルワンダ大衆にとって最も身近なメディアであるラジオを通じたプロパガンダ宣伝を巧妙に展開し、憎悪を煽り、民衆暴動の形でフトゥ民衆がトゥツィを殺戮する―あおりで最小勢力の被差別民族トゥワも30パーセントが殺戮される被害が及んだ―ように仕向けたのであった。
 一方で、虐殺当時は20年以上独裁体制を維持したハビャリマナ大統領の暗殺直後の政治空白期であり、この時期には明確な指導者が存在しなかったことも特徴である。今日では、大統領暗殺後に危機管理委員会を率いたテオネスト・バゴソラ大佐が重要な役割を果たしていたことが知られるが、虐殺は主としてハビャリマナ時代の軍精鋭と与党傘下の民兵組織が主導しており、ナチスのような真正のファシズム体制は樹立されていなかった。
 わずか100日余りで人口の2割近くが殺戮されるという異常な暴虐は、94年7月、攻勢を強めたルワンダ愛国戦線の全土制圧により終止符を打たれた。改めて連立政権が発足した後、2000年以降は愛国戦線指導者でもあるトゥツィ系ポール・カガメ大統領が安定政権を維持し、復興が進められてきた。―カガメ大統領がほぼ無競争で多選を重ねる中、近年はカガメ政権の独裁化も指摘され、新たな現代型ファシズムの兆しがなくはない。
 一方、虐殺の責任追及に関しては、国連ルワンダ国際戦犯法廷が設置され、2015年まで首謀者級の審理が行なわれた。同法廷で、先の「フトゥの十戒」主唱者と目されるジャーナリストのハッサン・ンゲゼやバゴソラは終身刑の判決を受けている(控訴により、ともに禁錮35年に減刑)。
 しかし、民衆暴動の形を取った虐殺への関与者は余りに膨大であるため、末端実行者級については、国民和解もかねて、01年以降、ルワンダの慣習的な民衆司法制度の下で審理されている。


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