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「女」の世界歴史(連載第21回)

2016-05-02 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

①娼婦マロツィアと聖女オリガ
 女権が体系的に抑圧された女性の暗黒時代にあっても、非公式な立場から政治介入を試みる例外女性権力者―女傑―は存在していた。ヨーロッパでは共に10世紀前半、封建制が弱く、比較的自由なイタリアと独自的な封建制が確立される前のロシア(キエフ大公国)で、そうした事例が見られた。
 
 まず10世紀前半のローマでは、テオドラとマロツィアの母娘が約30年にわたり権勢を張り、教皇の選出まで左右した。この時期のローマ政治は娼婦が政治を支配したという趣意で、しばしば「ポルノクラシー」(娼婦政治)とも呼ばれる。
 しかし、テオドラとマロツィアの母娘は決して本来の意味での娼婦ではなく、共に女元老の称号を持ち、当時のローマで最有力なトゥスクルム伯家の貴族女性であった。母娘は共にその美貌と資産を利用して、男性政治家や教皇をも操り、事実上ローマ政治を壟断し、混乱と腐敗を引き起こしたことから、後世批判を込めて「娼婦政治」と称されたものであろう。
 特に娘のマロツィアは母テオドラの画策により教皇セルギウス3世の愛人におさまり、婚外子として後の教皇ヨハネス11世を産んだとされる。彼女は、最初の夫と死別した後、再婚に異を唱えた時の教皇ヨハネス10世―テオドラと愛人関係にあったとされる―を捕らえ、獄死させたうえ、息子のヨハネス11世を擁立して教皇庁をも支配した。
 しかし、このようなマロツィアの専制は、最初の結婚で産まれたもう一人の息子アルベリーコ2世によって終止符が打たれた。彼は932年、クーデターにより母とその三番目の夫を追放し、息子の手で投獄されたマロツィアは数年後に獄死した。
 こうして「娼婦政治」は終焉するが、アルベリーコ2世は20年近くローマを支配し、その息子でマロツィアの孫に当たるヨハネス12世も後に教皇となるため、テオドラとマロツィアの血統的な流れはヨハネス12世が自ら授冠した初代神聖ローマ皇帝オットー1世によって廃位された963年まで続いたとも言える。
 
 ローマの女傑政治はたしかに悪政であったが、10世紀前半のロシアではキエフ大公妃オリガの善政が現われた。オリガはロシアの母体となるキエフ大公国の2代大公イーゴリ1世の妃であったが、夫が945年に暗殺された後、幼少の息子スヴャトスラフ1世の後見役として実権を握る。そのため、彼女は「摂政」とも称されるが、大公国初期に摂政の制度が公式に存在していたかは疑わしく、大公生母としての非公式な政治関与と思われる。
 いずれにせよ、オリガはまず夫の暗殺に関わったスラブ系ドレヴリャーネ族に民族浄化的な徹底した報復を断行し、これを服属させた。そのうえで税制改革を行い、大公直属の税務機関と徴税人を置き、大公国の集権体制と財政基盤を強化した。さらには自らキリスト教に改宗し、当時東欧のキリスト教大国であったビザンツ帝国からの庇護と援助を獲得することにも成功した。
 一方で、神聖ローマ皇帝に即位する前の東フランク王オットー1世にも接近を図るそぶりを見せ、偽りで司教の派遣を要請したとする西方の記録もあるが、これが事実とすれば、オリガは東西両教会を天秤にかけようとしていた可能性もある。
 オリガは息子のスヴャトスラフ1世を改宗させることには成功しなかったものの、スヴャトスラフの息子でオリガの孫に当たるウラジーミル1世以降、ロシアは東方正教会系のキリスト教国として確定することになった。そのため、オリガはウラジーミルとともに、東方正教会の聖人に当たる「亜使徒」に叙せられているところである。

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