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戦後ファシズム史(連載第34回)

2016-05-09 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

6:内戦期のユーゴ・ファシズム
 20世紀末における世界的悲劇として、旧ユーゴスラビア連邦崩壊過程でのユーゴスラビア内戦があるが、この内戦渦中であたかもナチを再現するかのような集団的民族浄化を伴うファシズムが現われた。
 この時期、旧ユーゴを構成した主要民族が多かれ少なかれ、自民族優越主義的なファシズムに傾斜していたため、この現象は包括して「ユーゴ・ファシズム」と呼ぶのが最も公平であろうが、中でもイデオロギーの点ではセルビアまたはセルビア人勢力によるそれが際立っていた。
 そうしたセルビアン・ファシズムが最初に発現したのは、一連のユーゴ内戦中でも凄惨を極めたボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦においてである。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナは元来、ユーゴ連邦を構成した八共和国の中でも、ボシュニャク人(イスラーム教)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)という宗派を異にする三つの主要民族が共存する複雑な構成を持っていた。
 そうした中、ユーゴ連邦の解体過程でボシュニャク人及びクロアチア人はボスニア‐ヘルツェゴヴィナの独立に賛成したが、セルビア人はこれに反対、セルビア民主党を主体にボスニア‐ヘルツェゴヴィナからの独立を宣言し、セルビア系スルプスカ共和国の樹立を宣言した。
 これを契機に始まった内戦では、三民族それぞれが独自の武装勢力を擁して、まさしく三つ巴の戦争となったが、中でもユーゴ連邦の中心にあったセルビア共和国を後ろ盾とするセルビア人勢力が優位にあった。
 その主力は、内戦前に結成されたセルビア民族主義政党セルビア民主党であった。かれらは精神科医出身で、セルビア民族主義のイデオローグでもあったラドヴァン・カラジッチを最高指導者に擁し、優越的な軍事力を背景に、その支配地域内のボシュニャク人やクロアチア人に対する民族浄化作戦を展開した。
 中でも、セルビア人勢力参謀総長ラトコ・ムラディッチが作戦指揮した内戦末期のスレブレニツァ虐殺事件では、最大推計で8000人のボシュニャク人が殺戮されたとされ、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦を象徴する惨劇として記憶されている。
 この時期のスルプスカ共和国の実態は、戦前期にナチスを後ろ盾に成立したクロアチア独立国のセルビア人版と言えるような、限りなく真正ファシズムに接近した体制だったと評し得るだろう。
 こうしたセルビアン・ファシズムの後援者となっていたのが、「本国」セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領であった。彼は旧ユーゴ時代の支配政党だった共産主義者同盟幹部として台頭した人物で、表向きはマルクス主義者とされていた。
 しかし、ミロシェヴィッチは1990年にセルビア共和国大統領に就任すると、セルビア民族主義を主要なイデオロギーとするファシズム体制を作り上げた。その政党マシンは左派的なセルビア社会党を名乗ってはいたが、実態としては極右的民族主義政党であった。
 ミロシェヴィッチはセルビアにあって、他の旧ユーゴ構成共和国内のセルビア人勢力を強力に支援・介入していた。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦への介入はその代表的な一例である。他方で、セルビア領内のイスラーム系アルバニア人自治地域コソボの独立運動を武力弾圧し、民族浄化作戦を展開した。
 ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦が終結した後、96年から本格化したコソボ紛争は99年、最終的にNATO軍によるユーゴ空爆という軍事介入により終結した。翌2000年に大統領再選を狙ったミロシェヴィッチに対して市民の大規模な抗議デモが発生する中、彼は退陣に追い込まれ、10年余りに及んだミロシェヴィッチ体制は終焉した。
 コソボ紛争を含む一連のユーゴ内戦では多くの戦争犯罪、反人道犯罪が横行し、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦ではクロアチア人勢力やボシュニャク人勢力、コソボ紛争でもアルバニア人武装勢力による犯罪が行なわれた。
 それらについては、国連が設置した旧ユーゴ国際戦犯法廷で現在もなお審理が続いている。ちなみにミロシェヴィッチも同法廷に起訴されたが、審理中の06年に病没した。カラジッチは長年の逃亡の末、08年にセルビア領内で拘束・起訴され、2016年3月に禁錮40年の判決を受けた。ムラディッチも11年に拘束され、現在審理中である。
 その意味で、この旧ユーゴ国際戦犯法廷はユーゴ・ファシズム全体を包括的に審理する法廷として、ナチス犯罪を審理した第二次大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判に匹敵する歴史的意義を持つとも言える。

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