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戦後ファシズム史(連載補遺)

2015-10-31 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

2ノ2:東欧/バルカン諸国の場合
 ギリシャを含む東欧/バルカン諸国は、第二次大戦中、ナチスドイツ(一部はファシストイタリア)の侵略を受け、併合されるか、もしくは傀儡政権を建てられるかしたため、完全に独立的なファシズム体制が出現した国は見られない。
 そうした中でも、1940年から44年までルーマニアに親ナチス独裁体制を築いたイオン・アントネスク総統体制、44年から45年にかけて短期間ながらハンガリーに親ナチス体制を築いたサーラシ・フェレンツ率いる矢十字党政権は、ナチスと呼応しつつ、短期間で多数のユダヤ人を虐殺し、「本家」に勝るとも劣らない反人道性を発揮した。
 一方、バルカン半島ではクロアチアに成立したアンテ・パヴェリッチ率いる民族主義政党ウスタシャの独裁政権がナチスドイツとファシストイタリア双方の支援を受けつつ、独自の民族ファシズム体制を築いた。この政権は「クロアチア独立国」を名乗り、独伊日三国同盟に参加し、日本を含む枢軸諸国からも国家承認を受けたため、完全な傀儡国家の性格を超え、ある程度「独立国」としての体裁を備えたバルカンにおける真正ファシズム体制とみなすことができる。
 クロアチア独立国でもナチスに倣った絶滅収容所でユダヤ人虐殺が実行されたが、それ以上に、この体制下では対立するセルビア人の大虐殺が組織的に実行された点で、バルカン半島特有の歴史的な民族問題を反映していた。
 一方、セルビア人側でも反枢軸抵抗勢力としてチェトニクが組織されていたが、この組織はそれ自身ウスタシャの相似形的なファッショ団体となり、クロアチア人やイスラーム系ボシュニャク人の虐殺に関与する一方で、枢軸国やクロアチア独立国とは妥協的協調関係に立つというねじれた立場を採った。
 これら東欧/バルカンのファシズム体制は第二次大戦での枢軸国敗北の結果、次々と崩壊していき、戦後におけるファシズム清算は、東欧/バルカン半島に続々とソ連の傀儡政権が樹立されていく中で、指導者が戦犯として処罰された。
 その後の親ソ社会主義体制下ではイデオロギー上「反ファシズム」が標榜される中で、ファシズムの復活可能性は政治的に抑圧されていたと言える。しかし、その処理は形式的であり、代替的にソ連型の社会主義一党独裁体制が構築されることで、かえって民主化は阻害された。言わば、ファシズムからスターリニズムへの代替が起きたにすぎなかったのである。
 これらの社会主義体制が80年代末移行、民衆革命により次々と崩壊していくと、多党制が復活する中で一部の国では再びファシズム系小政党が出現するようになり、あるいは民主化勢力の変節としてファッショ化要警戒現象が発現している国も存在する。
 その点、ソ連とは対立的な独自の社会主義体制に向かったユーゴスラビアはいささか事情を異にしたが、それとて建国者ヨシップ・チトーの権威主義により民族主義が抑圧される形で連邦の統合を保つという危うい構造であった。
 ユーゴにおける民族ファシズムは、1980年のチトーの没後、民族主義を強制的に封じ込めていたユーゴ連邦が解体に向かう凄惨な内戦の過程で、今度はセルビア人を主体として発現することになる。
 なお、ギリシャでは戦後、共産党と反共勢力間の内戦を経てさしあたり親西側の民主主義体制が成立したが、内戦後も尾を引いた左右両翼の対立から、60年代後半に擬似ファシズムの性質を帯びた軍事政権が成立した。
 その軍事政権もキプロス軍事介入の失敗から崩壊した後、再び民主化に向かうが、93年に結党され、ネオ・ナチズムの性格を帯びた「黄金の夜明け」を称する政党が深刻な財政破綻危機の中、2012年総選挙で初の議席を獲得するなど、伸張の動きを見せている。


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