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「女」の世界歴史(連載第26回)

2016-05-30 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

①英国王妃たちの内戦〈1〉
 封建制とは、一面では戦士が主導する恒常的または断続的な内戦状態の社会であった。戦士は専ら男性の社会的役割であるから、必然的に戦士社会は男性主導社会である。そういう中にあっても、一部の女性たちは、自ら戦士となることは稀だったとはいえ、内戦に主体的に関与することがあった。
 そのような事例は、中世イングランドでしばしば見られる。ここでは多くの場合、夫である国王が弱体な状況下で、王妃が内戦当事者として前面に出てきていた。その最初の例は、ノルマン朝三代目ヘンリー1世没後の後継問題をめぐって出現する。
 ヘンリー1世にはウィリアム王太子がいたが、彼が船舶事故で急死したため、もう一人の嫡子で、元神聖ローマ皇后である娘マティルダ(以下、愛称でモードという)を後継指名したのであった。彼女がそのまますんなり即位していれば、英国史上初の女王となったはずであるが、そうはならなかった。ヘンリーの甥で、モードの従兄に当たるブロワ伯エティエンヌ(スティーブン)が介入して自ら即位したからである。
 スティーブンは従前、モードの即位に同意していたにもかかわらず、事後に翻意した王位簒奪者であった。モード側はこれを不当として、スティーブン政権に武力抵抗したことで、20年近く続く長期の内戦に突入した。
 スティーブン体制は諸侯や教会の支持に基盤があったため、不安定であった。その隙を突いてマティルダ側は1139年にイングランド上陸を果たし、41年にはいったんスティーブンを捕虜とすることに成功したが、ロンドン市民からは支持されず、ロンドン入城は果たせなかった。これを見て立ち上がったのが、マティルダ王妃である。
 英語名では敵首領のモードと同名の彼女は42年、自ら軍を率いて反攻に出た。王妃は事実上の軍司令官として、モード側のロンドン包囲陣を撃破して、モード軍の司令官だったグロスター伯ロバート(ヘンリー1世の婚外子)を捕虜にし、スティーブンと交換の形で夫を救出してみせた。こうしてスティーブンの復位には成功したものの、モード側の抵抗は続き、内戦そのものはマティルダ王妃没後の1154年まで延々と続くこととなった。
 しかし51年にモードが再婚相手で内戦中の後ろ盾でもあったアンジュー伯ジョフロワを失い、スティーブンも53年に長男ユースタスを失ったことで転機が訪れた。スティーブンとモード側の間で協定が成立し、モードとアンジュー伯の間の息子アンリを後継王に内定することで、内戦は終結したのである。
 こうして1154年、アンリがヘンリー2世として即位し、フランス系のプランタジネット朝が新たに開かれた。血統上はモードの子孫が以後の歴代英国王となっていったという限りでは、元神聖ローマ皇后マティルダvsイングランド王妃マティルダの対決は、前者の勝利に帰したと言えるかもしれない。

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