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「女」の世界歴史(連載第24回)

2016-05-16 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

④武家政権の女性権勢家たち
 日本型封建主義が支配した武家政権時代は、女性にとっては男尊女卑社会を生きた暗黒時代とくくることもできるが、全体として600年以上の長きにわたったこの時代の女権のあり方には変遷が見られ、その節目ごとに象徴的な女傑が現われている。
 そもそも武家政権時代を拓いた鎌倉幕府の最初期には、女性も幕府から所領を安堵され、女性地頭が存在していたことが知られている。記録に残る代表例としては、主として下野国寒川を安堵された寒川尼がいる。彼女は下野最大の武士団であった小山氏の妻として、源頼朝が反平氏で挙兵するに際し、小山氏を源氏方に付かせるに当たり重要な役割を果たした功績の恩賞として、夫とは別途地頭としての地位を与えられたものと見られている。
 しかし、鎌倉時代初期における最大級の女傑は、何と言っても頼朝の正室北条政子である。彼女は伊豆で流刑中の頼朝の監視役だった北条時政の息女で、頼朝側近に寝返って鎌倉幕府樹立に貢献した父とともに初期の幕府体制を支えた。
 政子は「尼将軍」の異名を取ったが、これは自身の息子でもある第2代頼家、第3代実朝の両将軍が相次いで暗殺された後、京都から迎えた最初の摂家将軍藤原頼経の後見役として、実権を握ったからである。しかし、政子はあくまでも例外者であり、北条氏執権による幕府の体制が固まると、女傑の政治介入も見られなくなる。
 続く室町時代に入ると、室町将軍家の外戚として有力化していた公家の日野家出身の日野富子が出る。彼女は第8代将軍足利義政正室及び息子の第9代義尚生母として幕府の実権を握り、特に義尚が生前譲位によって将軍に就いてからは、まさにかつての北条政子のように幕府の実権を握るとともに、地位を悪用した蓄財にも執心し、ある種の窃盗政治(クレプトクラシー)の象徴ともなった。
 室町時代後半期に始まる戦国時代になると、武将の正妻は夫の出征中、家中を預かる代行者を務めることが多くなるが、そうした中でも最大級の女傑は、豊臣秀吉の正室高台院(ねね)である。彼女はマイナーながら武家(杉原氏)の子女であり、出自身分の低かった夫の引き立て役でもあった。
 秀吉が関白に昇進すると、北政所の称号を与えられた高台院は、朝廷との交渉役となり、黒印状の発給権も持つなど、政治行政的に相当の実権を夫と分有していたと見られる。前代の政子や富子とは異なり、世子を産めなかったにもかかわらず権勢を保ったのは、実力主義的な秀吉治世にふさわしく、彼女の実質的な能力によるところが大きかったと見られる。
 しかし、こうした女傑も男尊女卑思想が強まった近世には、姿を消す。日本の封建時代最後の女傑と言えるのは、徳川第3代将軍家光の乳母として権勢を持った春日局であると思われる。美濃の大名斎藤氏の出である彼女(本名斎藤福)は家光の将軍就任により、将軍様御局という地位を与えられ、徳川将軍家の言わばハレムである大奥制度の整備を主導した。
 これにより、将軍家の女性たちは大奥にまとめられ、表の政治からは遠ざけられることになった。春日局自身は表の政治にも関わり、家光との個人的なパイプを生かして老中を上回ると言われるほどの権勢を持ったが、以後、彼女のような女傑は見られなくなる。
 とはいえ、大奥は完全に政治的無力化されることはなく、時に集団的な政治力を発揮することがあった。ここでは立ち入らないが、幕府にとって最初の存続危機とも言える第7代将軍家継夭折時や幕末の体制動揺期には大奥も大いに政治的な影響力を行使したのである。


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