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「女」の世界歴史(連載第22回)

2016-05-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

②二人のメディシス女傑
 サリカ法の解釈により女王が輩出せず、かつヨーロッパ封建制の中心地でもあった中世のフランスでは女傑も容易に出現しなかったが、中世末期から近世前期にかけて、王に匹敵する権力を行使した女傑が出た。
 その一人はヴァロワ朝末期のアンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシス、もう一人はヴァロワ朝に続くブルボン朝の初代アンリ4世妃マリー・ド・メディシスである。その名のとおり、共にメディシス、すなわちイタリアのメディチ家出身のイタリア人であった。このようにフランスにおける二大女傑が共にイタリア出身者であったことは、イタリアの比較的な自由な気風を考えると、必ずしも偶然とは言い切れないかもしれない。
 最初のカトリーヌはフィレンツェの統領ロレンツォ2世の娘で、両親を早くに亡くして孤児となった後、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世とフランス王室の間の取り決めにより、14歳でアンリ王子に嫁いだ。名門とはいえ、商人出自のメディチ家の息女が王室に嫁ぐのは、異例の階級上昇であった。
 兄の急死を受けて王太子に昇格し、やがて国王に即位したアンリはしかし、イタリア人の王妃を「出産機械」としか見ておらず、10人もの子女を作るも、その愛情は専ら愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに向けられていた。このディアーヌはアンリより20歳も年長のフランス貴族女性で、アンリの家庭教師として王子時代から仕えるうちに愛人関係に発展していたのだった。彼女は知的で、王となったアンリにしばしば政治的な助言をし、公文書に共同署名するほどの実力を持つ女傑的人物でもあった。
 カトリーヌが実権を握るのは、アンリが馬上試合での負傷がもとで死去した後、ディアーヌを宮廷から追放してからのことである。その後は、相次いで王位に就いたフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世という三人の息子たちを後見する形で、カトリーヌの天下となった。
 ただ、カトリーヌの時代は、宗教改革の波が保守的なカトリック国であったフランスにも押し寄せ、新旧両教派の対立が激化する中、その対応に追われる日々であった。そうした状況で起きたのが、多数の新教徒ユグノー派が全土で殺戮された1572年のサン・バルテルミ虐殺事件である。
 新旧融和の観点からカトリーヌがセットしたユグノー派盟主ブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)と自身の娘マルグリットの政略婚を引き金として発生したこの事件に対するカトリーヌの関与については、議論の余地があるが、事件を予期しながら止めなかった責任は免れないと考えられている。
 この事件の結果、カトリーヌは冷酷な女独裁者として後世に悪名を残すこととなったが、一方ではメディチ家出身者らしく、人文主義的な素養を持った芸術の擁護者という一面も備えていた。
 晩年のカトリーヌは、お気に入りの息子ながら、新教に傾斜気味だったアンリ3世の下で勃発したカトリック強硬派とユグノー派を絡めた三つ巴の内乱を制御することができないまま、没した。
 彼女の死から間もなく、継嗣のなかったアンリ3世も暗殺され、ヴァロワ朝は断絶する。新たな王朝を開いたのは、カトリックに改宗した遠縁ブルボン家のアンリ4世である。この時、マルグリットと離婚したアンリの継妃として嫁いだのが、やはりメディチ家出身のマリー・ド・メディシスであった。彼女はメディチ家傍流トスカーナ大公家の出身だったが、成立したばかりのブルボン朝にとっては巨額の持参金が目当ての政略婚であった。
 アンリは女色家で、マリーを放置して浮気に走ったため、彼女は孤独な宮廷生活を送っていたが、アンリが1610年に暗殺され、幼年の息子ルイ13世が即位すると、マリーは摂政として政治の実権を握った。
 しかし、アンリ4世からもその明敏さを認められたカトリーヌとは異なり、マリーは政治的な手腕に欠け、硬直した側近政治に走り、アンリ4世が出した宗教寛容令(ナント勅令)に基づく国内の安定を守り切れなかった。
 1617年、成長した息子ルイ13世の手で排除、幽閉されるが、脱出後、反乱に失敗してからは、ルイの宮廷でマリーに代わって実権を握るようになったリシュリュー枢機卿との政争を繰り広げた。しかし、結局、老獪なリシュリューには勝てず、フランスを追放され、42年にケルンで客死した。
 かくして、メディチ家出身の遠縁関係にあったカトリーヌとマリーは、フランスが国内における新旧両教派の対立であるユグノー戦争を経て、新旧両教派の国際戦争三十年戦争に巻き込まれ、男性王権が揺らいだ困難な時期に輩出された例外的な女傑であったと言えよう。

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