本書の目的は、小津安二郎の映画の本質究明です。
結論的に言うと、小津監督は映画という媒体をとおして、現実が無秩序な世界であることを表現し、映画を愛するがゆえに映像のまやかしと戯れた監督です。
独特のローアングル、反復とズレの多用、浮揚した俳優の視線、それらは小津映画で意識的採用された手法でした。小津映画は、著者の言葉をかりれば、「動きを完全に封じられたカメラ・ワーク、無記名のままに浮遊する情景、そしておびただしく接続されて迷宮化する物語群といった小津さんらしい表現は、あくまでもゲームの規則でしかなく、それがたえず新たな戯れの対象となって容易に否定されるのである。このように映画は、無秩序に耐えようとする理性と、虚しく秩序を求めようとする情念が織りなす、夢の物語にほかならなかったのである」(p.154)ということになります。
著者はこうした小津マジックを初期のサイレント映画、『東京の合唱』『生まれてはみたけれど』『東京の女』『生まれてはみたけれど』『一人息子』『戸田家の兄妹』『父ありき』『長屋紳士録』『風の中の牝鶏』『晩春』『東京物語』『麦秋』『早春』『秋日和』『秋刀魚の味』といった作品をとりあげ、解説しています(とくに後期の6作品に重点がおかれている)。
また、著者が耳にしたり、読んだ小津監督のいくつかの言葉を手掛かりに小津映画の魅力を明るみにしています。それらは、「映画はドラマだ、アクシデントではない」「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」「ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ」です。いささか自嘲的で、諧謔的なこれらの言葉にも小津映画の意図した片鱗が語られているとのことです。
著者は映画監督で代表作に「秋津温泉」「エロス+虐殺」「戒厳令」「人間の約束」があります。1963年1月の鎌倉の料亭で開かれた松竹大船監督会の新年宴会での小津監督との気まずい酒、同じ年の11月に入院中の小津監督を見舞った直後に聞いた「映画はドラマだ、アクシデントではない」という監督自身の言葉から出発して、この秘められた黙示を本書で解きほぐそうとしたようで、それは見事に成功しています。