ライブドアによるニッポン放送株の買い占め、村上ファンドによる阪神電鉄株の買い占め、楽天によるTBS株の買い占めなど、株式会社の存在基盤とその威信をおびやかす事件が相次ぎました。このなかで企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)が何かしら価値のあるもののように声高に叫ばれ、またそうした動きを歓迎する向きがあります。
それでは、企業の社会的責任というとき、その企業には株式会社以外のものが想定されているのか、そもそも企業とは、株式会社とは何なのか、また法人とは自然人とどこが異なるのか、あるいはまた社会的責任とは何なのか、それらの問いにまともに答えるものはほとんど無いに等しいのが現状です。振り返ってみれば、株式会社の研究者は意外と少ないのだそうです。この企業形態がまともに研究対象になったことがないのです。
著者はかかる疑問から出発して、企業の社会的責任という物言い、流行語の欺瞞性を明らかにし、批判していきます。
株式会社はそもそも出資者の有限責任からなりたっているので、彼らは経営に対しての責任が乏しく、その意味で言ってみれば無責任会社です。
企業運営の責任者は、経営者です。問題を起こしたならば、経営者が責任をとらなければならないのは当たり前でしょう。しかし、日本ではそこが曖昧になっています。ために、社会に反する問題を企業が起こしても、企業はなくなることなく、存続しています。
企業が果たす責任とは利潤の確保であり、株主が期待しているのは配当、あるいは株価の値上がりです。企業が社会的責任が果たすというのは欺瞞であり、企業弁護の宣伝、カモフラージュでしかない、と著者は厳しく指摘しています。
労働組合もそこに巻き込まれているのが現状です。労働組合が「企業がはたすべき社会的責任」について言うのはおかしな話で、それを言うのであれば「法律を遵守せよ」だと著者は言います。
経済の重化学工業化で、大規模な資金が必要になり社会的遊休資本の調達が容易な株式会社は企業の代表的存在とのコンセンサスが定着していますが、企業の形態は株式会社だけではないのですから、今後はさまざま企業形態の模索があるであろう、というのが著者の展望です。
アダム・スミス、J.S.ミル、バーリ、ミーンズ、ラテナウなども出てきて、企業論の学説史も俯瞰できます。
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