【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「母の身終い(Quelques heures de printemps)」(ステファン・フリゼ監督、2012年;銀座シネチッタ)

2013-12-16 22:58:23 | 映画

                    

 老いをどのように受け入れるかは、人間全体にとっても、個人にとっても、永遠のテーマだ。とくに、90歳をこえる長生きが珍しくなくなった現在、高齢化は社会問題であるとともに、ひとりひとりの問題でもある。尊厳死とか、安楽死とかも日程にのぼるのだろうか。

 この映画はこの問題を問いかける。

 47年連れ添った夫に先立たれた老いた母イベットは、48才の今は独り身の男アランと一緒に暮らしている。長距離トラックの運転手だったアランはかつて麻薬の密輸に関連して、18か月間刑務所にいたが、いまは出所して再出発を期している。しかし、当面の仕事もなく母のもとに転がりこんで、生活をともにしはじめた。いい仕事はなかなか見つからない。ようやく、就いた仕事は、ごみ処理の分別作業。生きていくには仕方のないところだが、いやいやの仕事であり、生活は貧しい。気晴らしだろうか、ボーリングに興じ、たまたま隣のレーンでボールを投げていた女性クレメンスと親しくなり、ベット・イン。いい関係に発展しそうになるが、所詮、男は可たるべき自分がない。女はそんな男に愛想をすかし、去っていく。

 老いた母は、不治の病気をかかえている。悪性の腫瘍で、頭のなかで少しづつ大きくなっている。生活はいまのところ、無理をしなければとくに支障はない。几帳面な性格で、炊事、掃除、洗濯の日常生活はきちっと過ごしていく。ときどき気をまぎらすのはジグゾーパズル。隣人の男性ラルエットとも行き来し、変化には乏しいが、ゆったりと時間が過ぎていっているようだ。

 ある日、男は薬をいれてある箪笥の引き出しに書類をみとめる。みると尊厳死を紹介した協会からの書類のようで、母親はサインをしていた。いつか、尊厳死を受け入れることを承諾した書類だった。母は息子のことが心配で、言葉はすくないが、ときどき生活をたてなおすように咎める。ある日、ついに、息子はキレた。母親に怒鳴り声で悪態のかぎりを言い、家を出ていく。

 男は友人ラルエットの家に転がり込んでいた。心配してラルエットが家を見に来るが、母親もどうすることもできない。決定的な決裂で、関係の修復は無理そう。そんな時、母は家でかってい愛犬に誤ってネズミ殺しを食べさせてしまった。苦しむ犬をみかねて、連絡でもしたのだろうか男が戻ってくる。犬を必死で介護し、どうやら命はとりとめた。

 イベットの病状はさらに進行する。生活もつらそうになってくる。みかねて教会の人が尊厳死の説明にくる。了解する母親。息子とともにスイスの施設に入る。母親はそこで納得して薬をあおぐ。息子と抱きあう、彼女はなきながら最後の別れをつげる。息子も母親をしっかり抱くが、母親は次第に弱って、ついに死んでいく。

 ひとつ冷めた眼でみると、イベットの生活はどのように成り立っていたのだろうか。年金はもらっていなかったのだろうか。アランの生活は苦しく、仕事もしていない。となると、イベットがもらっていたかもしれない年金は当面、必要ではなかったのだろうか。その辺が、ストーリーでは全然、問題になっていなかった。現実的すぎる話かもしれないが、少々、気になった。

 1時間47分ほどの映画。画面はたんたんと流れていくが、場面の切り替えはうまい。思いがけなくシーンの切り替えがあり、観客はそこで切り替わった場面をゆっくり考える時間を共有できる。おしつけがましいところのない展開だ。

 最後の場面。亡くなった母を施設の人たちが車で、火葬場にだろうか、運んでいく。そして男がうつる。何も語らず、しかし、たばこをふか、追憶でもしているのだろうか。それが数分続き、FIN。深い余韻を残して映画は終わった。


原題は”Quelques heures de printemps”、直訳すると「春の数時間」です。

・ヴァンサン・ランドン(アラン)
・エレーヌ・ヴァンサン(イベット)
・エマニュエル・セニエ(クレメンス)

2013年セザール賞4部門(主演男優賞、主演女優賞、監督賞、脚本賞)ノミネート