【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

大野耐一『トヨタ生産方式-脱規模の経営をめざして-』ダイヤモンド社、1978年

2011-01-07 00:10:00 | 経済/経営
                                   
              
 「トヨタ生産方式」とは何か? 「トヨタ生産方式」がトヨタのあみだした独特の生産方式で「かんばん」方式として知られることはわかるのですが、もっと正確に説明しようとするとなかなかうまく説明できません。「かんばん」方式とは何なのか。アメリカのフォード方式とどこが違うのか。

 本書は、その「トヨタ生産方式」の真髄を解説した文献です。

 まとめると、トヨタ方式とは、戦後の日本の自動車工業に与えられた制約、多品種少量生産から生まれたもので、ムダを徹頭徹尾排除するための生産効率向上の方式です。
 この方式の魂は2つ、ひとつは[
ジャスト・イン・タイム]、もうひとつは[自働化]です。前者は一台の自動車を流れ作業で組み上げていく過程で、後工程から組み付けに必要な部品を、必要なときに必要なだけ前工程に引き取りに行き、前工程は引き取られた分だけつくり、それを生産ラインのわきに正確に到着する仕掛けのことです。
 後者は自動化ではなく、「動」に人遍のついた自働化であるというのが味噌で、機械に人間の知識を付与すること、機械にビルトインされた良し悪しの判断装置のことです。
 いわゆる「かんばん」方式の「かんばん」は、前者のジャスト・イン・タイム実現するための管理道具です。具体的には後行程が前工程に部品を引き取りにいくさいの「引き取り情報」または「運搬情報」を四角のビニール袋に入れた紙切れです。行程間の効率的な連携はこの情報としての「かんばん」によって保持されるわけです。
 さらに、これをシステムとして機能させるためにさまざまな工夫がなされ、従来生産現場の常識をくつがえす試みが数々行われました。
 それは一人の作業者が多数の行程を担当する「多行程持ち」であり、「流れ作業」をつくる「流し作業」を、「省力化」ではなく「小力化」を意識化することであり、標準作業(標準手持ち)を徹底することであり、指標として「稼働率」ではなく「可動率」を使うということ、といったものです。

 著者はフォードシステムとの相違についてもふれ、この方式が少品種多量生産というアメリカ的市場特性にみあったものであるのに対し、トヨタ方式は多品種小量生産という現在の環境に適したものと考えています。ただし、フォードが追求した生産効率の構想はトヨタ方式へと転換される方向もありえたのが、1920年代のアメリカの自動車市場の変化がそれを許さない条件をつくったので、そういう流れにならなかっただけである、とのことのようです。

 著者、大野耐一(明治45年~平成2年)はトヨタ方式のプロデューサーとのこと、1975年に出版された本書は2010年に107刷りを数えています。

 その大野さんがトヨタ方式を述懐して「佐吉翁から喜一郎氏へ、さらに私どもの時代へ、企業の内外の大きな条件変化のなかで、トヨタ自身、自己発展を遂げてきた。このような経過を、弁証法的発展というのではないかと思う」と書いてるところがあり、「弁証法」という懐かしいタームの使い方が面白く受け取りました(p.168)。

奥村宏『会社はどこへ行く』NTT出版、2008年

2010-12-08 00:16:25 | 経済/経営

           
 著者は「会社学」を提唱しています。株式会社についての研究はほとんどないと言います。

 世の中の会社には、株式会社が断然多く、会社≒株式会社と思っている人はたくさんいますし、株式会社は永遠のものと考えている人も多いのではないでしょうか。

 しかし、株式会社は歴史的存在であり、近年では株式会社の存立基盤が怪しくなってきているうえ、著者は21世紀の半ば過ぎには会社の形態をどう変えるかという課題がでてくると予想しています。

 というわけで本書は、株式会社の在り方をオランダの東インド会社(1602年)から説き起こし、そもそも法人とは何かについてのかつてあった論争を紹介することからテーマの考察を始めています。

 いわく、法人擬制説(R.C.サヴィニー)、法人否認説
(R.イェーリング)、法人実在説(O.ギールケ)など。
 法人擬制説は、法人が人為的に(たとえば特許によって)財産権の主体として擬制された主体であるとする説、法人否認説は法人の社会的実体が独自の主体的存在であることを否定し、法人は仮想された主体で、一定の目的に仕える財団などと法的関係があるにすぎないとする説、法人実在説は法人が法人格を与えられるに適する、かつ必要とする社会的実在であるとする説です。

 株式会社は当初から株主が有限責任であったために企業経営に責任をもたないような仕組みが内蔵され、それが行き過ぎることのないように「資本充足の原則」「資本維持の原則」がJ.S.ミルによって定式化されました。

 ひるがえって日本の株式会社の現状をみますと、株式持合、安定株主工作、投資ファンドの許容など、株式会社の原理に反することがいくつも黙認されています。

 1997年の独禁法改定で持株会社が解禁となり、事態はますます深刻化しています。実はそのような株式会社の原理に反することが表立ってみられるのは日本だけではもちろんなく、エンロン事件、ワールドコム事件にみられるように先進国ではどこでもみられることなのです。

 クリントン大統領の経済諮問委員会の委員長を務め、世界銀行の副総裁であったあのJ.スティグリッツも最近になって株式会社の無責任体質を厳しく批判しています。

 株式会社の危機は、世界的徴候です。本書は著者の長年の研究成果の結晶です。


奥村宏『株式会社に社会的責任はあるか』岩波書店、2006年

2010-11-27 00:16:44 | 経済/経営
               
                 
                

 ライブドアによるニッポン放送株の買い占め、村上ファンドによる阪神電鉄株の買い占め、楽天によるTBS株の買い占めなど、株式会社の存在基盤とその威信をおびやかす事件が相次ぎました。このなかで企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)が何かしら価値のあるもののように声高に叫ばれ、またそうした動きを歓迎する向きがあります。

 それでは、企業の社会的責任というとき、その企業には株式会社以外のものが想定されているのか、そもそも企業とは、株式会社とは何なのか、また法人とは自然人とどこが異なるのか、あるいはまた社会的責任とは何なのか、それらの問いにまともに答えるものはほとんど無いに等しいのが現状です。振り返ってみれば、株式会社の研究者は意外と少ないのだそうです。この企業形態がまともに研究対象になったことがないのです。

 著者はかかる疑問から出発して、企業の社会的責任という物言い、流行語の欺瞞性を明らかにし、批判していきます。

 株式会社はそもそも出資者の有限責任からなりたっているので、彼らは経営に対しての責任が乏しく、その意味で言ってみれば無責任会社です。

 企業運営の責任者は、経営者です。問題を起こしたならば、経営者が責任をとらなければならないのは当たり前でしょう。しかし、日本ではそこが曖昧になっています。ために、社会に反する問題を企業が起こしても、企業はなくなることなく、存続しています。

 企業が果たす責任とは利潤の確保であり、株主が期待しているのは配当、あるいは株価の値上がりです。企業が社会的責任が果たすというのは欺瞞であり、企業弁護の宣伝、カモフラージュでしかない、と著者は厳しく指摘しています。

 労働組合もそこに巻き込まれているのが現状です。労働組合が「企業がはたすべき社会的責任」について言うのはおかしな話で、それを言うのであれば「法律を遵守せよ」だと著者は言います。

 経済の重化学工業化で、大規模な資金が必要になり社会的遊休資本の調達が容易な株式会社は企業の代表的存在とのコンセンサスが定着していますが、企業の形態は株式会社だけではないのですから、今後はさまざま企業形態の模索があるであろう、というのが著者の展望です。

  アダム・スミス、J.S.ミル、バーリ、ミーンズ、ラテナウなども出てきて、企業論の学説史も俯瞰できます。

藻谷浩介『デフレの正体-経済は「人口の波」で動く』角川書店、2010年

2010-11-17 00:16:44 | 経済/経営
                                          デフレの正体 

 著者の認識による、現下の経済の負のスパイラルは、次のようです。

 団塊世代の一次退職→彼らの年収の現象→彼らの消費の減退→内需対応産業の一層の供給過剰感→内需対応産業の商品・サービスの値崩れ→内需対応産業の採算悪化→内需対応産業の採用抑制・人件費抑制→内需の一層の減退。

 この現状は容易に乗りこえられるものではありません。経済学者の発想がおかしいので、見通しは暗いのです。

 著者は本書でマクロ経済学の「常識的理論」に異議をとなえ、今日の日本経済が直面している2000年に1度の人口現象(減少)の危機を浮き彫りにしています。

 冒頭から、よく使われる経済指標、GDPの対前年増加率、失業、有効求人倍率の過大評価をいさめ、これらの指標の改善を意図した短期的景気対策がほとんど意味がないと、主張しています。

 重要なのは新車販売台数、貨物総輸送量、自家用旅客輸送量、酒類販売量、小売販売額、雑誌書籍販売量の絶対額の傾向的現象であると、言います。つまり、この種の統計の絶対量の低下の背景にあるのは、これらを購入し、消費する人口集団の著しい現象があって、それは内需の縮小を意味するから、景気の建て直しにには近視眼的な景気高揚政策はほとんど効果薄せあるというのです。

 「生産年齢人口(15歳~64歳)[これを著者は「消費年齢人口」と呼びたいようである(p.93)]」が今後どんどん減少していきます。その人口変動の動向をおさえることが経済活性化の要というわけです。

 この視点から「人口減少は生産上昇で補え」「経済成長率をあげろ」「公共投資を景気対策として増やせ」「インフレ誘導をしろ」「エコ対応の技術開発でモノづくりのトップランナーとしての立場を守れ」といった通説が実効性に欠けることを示しています。

 それでは、どうすればよいのでしょうか。著者が挙げているのは、第一に高齢者富裕層から若者への所得移転、第二に女性の就労と経営参加をあたりまえの状態にすること、第三に労働者ではなく、外国人観光客・短期定住者の受け入れ、です。

 今後、高齢者は激増します。そのための船中八策が最後に掲げられています。いわく、高齢化社会における安心・安全の確保は生活保護の充実で、年金から「生年別共済」への切り替えを、戦後の住宅供給と同じ考え方で進める医療福祉分野の供給増加、です。

杉原四郎『J.S.ミルと現代』岩波新書、1980年

2010-10-11 09:50:55 | 経済/経営
 J.S.ミルの経済学(主要著書は、『経済学原理』『自由論』『自叙伝』など)は現在、あまり問題にされることがありません。しかし、明治期には頻繁に翻訳され、思想的影響力があったようです(天野為之、河上肇など)。そのことが本書の「ミルと日本」に記されています。

 本書はミルの経済学とその背景にあった社会哲学を平易に紹介した好著で、ミルその人が父から厳しい教育を受けたこと、妻であったハリエット、ヘレンとの人間愛と夫婦愛、そして本題のミルの思想で、それをスミス、マルクスとの対比、マルサス、リカードとの関連、スペンサー、カーライル、コントなどの同時代者との交流(後者2人とはその後絶交)を描いています。

 ミルの思想的特徴はひとことで言えば「発展的民主主義」とでも言うべきもので、これとの関連で女性の参政権の支持と提言、その実現に向けての活動があり、資本主義と社会主義、ひいては共産主義との比較体制論点的考察があり、労働と競争の役割についての強調があります。

 他方で、ミルはナチュラリストであり、自然に対する人間の関わりを視野にいれた哲学をもっていました。人間に対する自然的条件の制約を無視できないという視点は、現代にもそのままつながります。

 また、ミルは「富と人口との停滞現象」を否定的にとらえず、むしろそれこそ人間的進歩の条件であると言ってるそうです。経済発展至上主義に対する警鐘です。

 この国(日本)ではソ連崩壊後、社会主義という概念はすっかり色あせ、地に堕ちてしまい,社会主義について語ることを自重している人が多いです。しかし、本来の社会主義は、今でも検討に値するテーマです。当然、ミルは、自身の生きた時代に、社会主義の問題を重視し、資本主義体制との比較体制的議論を展開しました。

 驚いたのは、あの精神分析の創始者として有名なフロイトがミルの社会主義論をドイツ語に翻訳したことです(この本は院生の頃に読んだことがあるのですが、この記述は全く忘却していました)。再発見です。

 杉原四郎先生はわたしが北大の大学院生だった頃、集中講義に来ていただいたときに、受講させてもらいまいした(1977年)。この間、日曜日の休日には野幌原始林を紹介し、一緒に散策させていただきました。懐かしい記憶です。この本の語り口そのままに優しい、折り目正しい先生でした。その先生は昨年(2009年)7月に亡くなられました。合掌。

橋本健二『階級社会日本』青木書店、2001年

2010-10-07 00:22:33 | 経済/経営
                                            
                               
  一時死語となったかのような「階級」という概念を復権し、この概念が社会経済分析に果たす意義を確認し、日本社会の階級構造を解明しようとした問題提起の書です。

 階級という概念はマルクス主義の分析装置として知られていますが、マルクス以前にもアダム・スミスがこの用語を使っていたし、マルクス以後にもウェーバーにも固有のものでした。

 著者は、マルクスに沿いながらこの階級概念の使われ方がスミスと異なり、ウェーバーに継承されたことを確認して、その意義を強調していますが、他方でマルクスが『共産党宣言』でこの概念に込めた理解不能で性急な結論を示し、さらに階級概念を両極分解論、絶対的窮乏化論と結びつけたことの誤りを指摘しています(このあたりの議論には、にわかに同意しかねるがここでは、詳しく触れない)。

 さらに、著者はこの議論が日本の研究者に与えた負の影響をクローズアップしています(階級構成表の「大橋方式」など)。

 以上が前段で、「プロムナード」を挟んで、後段はSSM調査を活用して日本の戦後の階級構造の分析に入っています、。資本家階級、新中間層、旧中間層、労働者階級の4つの階級構成をあぶりだすとともに、それぞれの出身階級との継続性と断絶性、階級間の移動の分析が興味深く論じられています。また、女性の階級構成のもつ独自の性格(夫の属する階級に依存)の分析も刺激的です。

 この種の分析につきまとうパターン化された社会認識に違和感をもつ部分もありますが、著者の分析の意味をその点だけから判断するのは避けたいと思います。

 最後の部分で著者は結論を述べています。社会変革は労働者階級には期待をもてないこと、「無階級社会」は無理であるが、「非階級社会」の実現は望めるのではないか、という展望です。この発想は、アマルティア・センの「潜在能力の平等」という視点に依拠しています。

 なお、SSM調査というのは、戦後、社会階層に関する大規模な調査が盛んとなった状況のなかで、尾高邦雄が中心となって実施された調査です。1955年が第1回、以後、調査は10年後ごとに行われています。膨大なデータセットが蓄積されているとか。

相沢幸悦『恐慌論入門-金融崩壊の深層を読みとく』日本放送協会、2009年

2010-08-28 00:54:17 | 経済/経営
                                
                           


 本書で著者が口を酸っぱくして強調しているのは、2008年の世界金融危機が史上最悪の「金融」危機であり、金融危機が先行して世界市場「恐慌」というプロセスをとった危機であり、1929年恐慌を上回る深刻な「世界恐慌」であり、たんに景気循環の一環として勃発したものではなく、資本主義の構造的大転換を促すもの、地球環境保全システムへの大転換をせまる「世界恐慌」、「人類史上最悪の『恐慌』」(p.81)だ、ということです。換言すれば、それは「アメリカ型資本主義の崩壊」に他なりません。

 以上が著者の結論です。それでは何故このような事態がおきたのでしょうか。切っ掛けとなったサブプライム問題。背景にあったのは、株式バブルと住宅バブルです。

 まず90年代後半の株式バブルは、冷戦下のハイテク産業の成果を「IT革命」という形で演出し、世界から大規模な投資資金を株式市場に投入させたことで実現、アメリカの景気高揚政策に貢献しました。

 他方、住宅バブルは(起点は1977年の「地域再投資法」)、住宅と言う実物資産を「原資産」とする壮大なデリバティブ取引の帰結であり、信用力の低い低所得層にまで住宅ローンを貸し付け、その貸出債権をもとに、リスクが高いサブプライム関連金融商品を金融工学を駆使して組成し、これを格付け会社が高格付けを与えてあおって生み出されたものです。

 今回のアメリカ発の金融危機は、ふたつのバブルが一挙にはじけた信用危機というわけです。

 著者は以上の理解を、恐慌のメカニズムの確認、金本位制から管理通貨制への以降にともなうその基本メカニズムの形態変化、さらに日本の不動産バブルの崩壊不況である平成不況の本質、ヨーロッパにおける2008年世界恐慌の傷跡などを確認しています。

 最後にアメリカをはじめとした世界経済の行方の考察(グリ-ンニューディール政策の疑問、ドル暴落の危険性、金融システムの社会的責任と健全な証券市場の追及)、日本経済の進むべき道についての説得的な提言(本格的な内需拡大型経済システムへの転換、環境保全型経済と健全な金融システムへの舵取り、アジア共同体の構築)を行っています。

  現代資本主義の構造を、身近に存在した(存在している)経済危機と結び付けて本格的に論じた好著です。

内田義彦『資本論の世界』岩波新書、1966年

2010-07-23 00:08:30 | 経済/経営
                資本論の世界 (岩波新書 青版)

 学生時代に読んで感動した本の、再読です。

  「人間にとって資本主義は何を意味するのか」ということを考えるのに、経済学はいったい、いかにして、いかなる意味を持ちうるのか、を正面から取り上げた本。

 「資本論」の解説でもなく、マルクスの思想の歩みでもなく、「資本論」を使ってみることで、資本主義の現実がどう見えてくるかを示すこと、それが著者の一貫して追求してきたことでした。(以上、「あとがき」から)。

 表題と関わって、著者は「研究の対象である資本主義社会と、それを把えようとするマルクスの間に、緊張をはらんで成立するのが、『資本論の世界』であります・・・」とも書いています(p.36)。

 考察が深く、問題が根源的に捉えられてる好著です。

 まず冒頭で「資本論」が刊行されたのが明治国家の誕生と同時であることを手掛かりに東西の歴史を振り返り、次いでマルクスとスミスとの問題関心が重なる部分と重ならない部分の考察、とりわけ両者が同じ私有財産制社会であり商品経済社会である資本主義社会を扱いながら、スミスはそれを自由な社会として歴史の終極点として位置づけたのに対し、マルクスはそれを本来の人間の歴史が始まる最後の段階として位置づけたこと、人間による自然の支配というポジィティブな面とともに、人間による人間の支配というネガティブな面をも把握したことを強調しています。

 その延長上で、「資本論」の労働過程論をベースに歴史貫通的な人間の物質代謝過程の特徴を動物のそれと対比しつつ、搾取(アウスボイトゥング)の意味合いと労働疎外の問題を考察しています。

 圧巻は、相対的剰余価値の生産と資本と人間の再生産を検討した章で、これらの章で資本主義経済のもとでの生産力の発展、機械制大工業の歴史的意義、資本家階級と労働者階級の対立の必然性、資本家相互の利害対立と矛盾、資本蓄積の必然性と階級関係の再生産の構造が浮き彫りにされています。

 講演形式の内容(NHKでの10回にわたる放送での録音テープが土台)なので、比較的読みやすいのがよいです。

浜矩子『グローバル恐慌-金融暴走時代の果てに-』岩波新書、2009年

2010-07-22 10:50:28 | 経済/経営

             

             


  切れ味鋭い文体で、金融暴走時代がその極限までに到達して行き詰った今日、その後に何が起こるのかという問いに対する答えを読者とともに探っていこうという本です。

 その道筋はおよそ次のようです。まず、現在の局面が危機ではなく、恐慌であると捉えています。「恐れ慌てる」という字義のとおりの「恐慌」です。

 第1章では、今回の恐慌(グローバル恐慌に向けて地獄の扉が開いた経緯)の要約で、リーマンショックに始まって、AIG救済、金融コングロマリット、あるいはユニバーサル・バンキング時代突入の契機となったグラス・スティーガル法の改訂(1999年)、「サブプライム・ローン証券化問題」の含意などなどが論じられています。
 証券化問題が「飲み屋の福袋作戦」の譬えで説明している箇所が面白く、わかりやすいです。そして、円は隠れ基軸通貨であること、ジャパンマネーがグローバル恐慌の遠因であるとの指摘があります。

 第2章では今回のグローバル恐慌の出発点がニクソン・ショックにあること(1971年8月)、金利自由化プロセスの完了(1986年)と証券化、いわゆる「金融スーパーマーケット」時代の開幕、カネとモノの遊離、カネの一人歩きに至った経路が解かれています。

 第3章では現在の地球経済が集中治療室にいるようなものだと言い、アメリカ(TARP[金融安定化法]の迷走[不良債権の買い取りか資本注入かで錯綜]、欧州における政策の足並みの乱れ、日本の場当たり的、方向感なき政策のオンパレードが批判的に論じられています。

 第4章では恐慌とは何かが原理的に考察され、1929年恐慌と今回のグローバル恐慌との相違、とくに後者が管理通貨制度下の恐慌であることが指摘されています。

 第5章ではG20(2008年11月)の危機感の欠如から始めて、重要な論点の提示があります。すなわち、グローバル時代の金融役割の検討、金融と通貨(価値の安定性)との関係の点検です。世界中が瞬時に大不況に転落していく状況のなかでアメリカ経済の前途がきわめて厳しいこと、失調急な欧州経済とタイタニック号化している中国経済に対する懸念が表明され、経済が保護主義へ向かうことへの危うさが論じられています。

 「おわりに」ではその保護主義的兆候にたいする警告、モノとカネの新たな関係構築の可能性、基軸通貨概念への違和感が語られ、本書の旅の終了と、新しい旅への予感が示されています。

 ダイナミックな現代資本主義論、国際金融論です。


奥村宏『三菱-日本を動かす企業集団-』社会思想社、1987年

2010-07-02 00:30:38 | 経済/経営
           
  旭硝子、キャタピラー三菱、キリンビール、三菱電線工業、大日本塗料、ダイヤモンドクレジット、東京海上火災保険、東洋製作所、日本光学工業、日本郵船、三菱アセテート、三菱アルミニウム、三菱液化瓦斯、三菱化工機、三菱化成工業、三菱瓦斯化学、三菱金属、三菱銀行、三菱建設、三菱原子燃料、三菱原子力工業、三菱鉱業セメント、三菱地所、三菱自動車工業、三菱事務機械、三菱重工業、三菱商事、三菱信託銀行、三菱スペース・ソフトウェア、三菱製鋼、三菱製紙、三菱石油、三菱倉庫、三菱総合研究所、三菱電機、三菱プレシジョン、三菱モンサント化成、三菱油化、三菱ヨーク、三菱レイヨン、明治生命保険-上記はこの本の裏表紙に載っている三菱グループに属する企業。

 ひとつの企業を理解するには、創業の経緯、理念、それと関わる社是、社訓、そしてその企業の歴史、行動などを最低おさえる必要があります。

 三菱の創業者は岩崎弥太郎、土佐藩所有の汽船を貸与されることで事業を始めました(p.186)。社訓は「所期奉公」「処事光明」「立業貿易」の三綱領、創業から「国家とともに歩む」精神を貫いているといわれるているそうです(p.182)。

 創業後は後藤象二郎、大久保利通、大隈重信などの維新の元勲とのコミュニケ―ションのなかで事業を拡大しました。事業拡大とともに多角化し、財閥として発展、傘下企業は増大。以後、四代にわたり岩崎家がこの財閥をコントロールしました。

 戦後財閥解体の憂き目にあいましたが、企業集団として再生し、「金曜会」という社長会を立ち上げ、株式の相互持ち合いを進め独特の企業集団を形成、昭和30年、40年代には重化学工業化路線をひた走ることになります。

 50年代に入って重化学工業化が頭打ちになると、新しい路線が模索され、一方で大衆化の方向、他方で海外進出(外資との提携を含む)、国際化の方向が志向されました(世界の三菱化)。

 あわせて見落としてならないのは軍需産業化で、兵器の製造に乗り出し、名実ともに日本資本主義の核となる企業集団となりました。

 本書は、このように現代のリヴァイアサンたる三菱の生い立ちと現在を巨視的に、本質的に分析し、解剖した成果物です。

 著者は、言うまでもなく、法人資本主義論の旗頭的存在。その「法人資本主義」概念は、著者によって次のように要約されている、「相互支配による相互信任、これこそが株式相互持合いからでてくる論理であり、法人所有に立脚する経営者による支配こそがここで確立するのである。これが法人資本主義の支配構造なのである」と(p.87)。

 この本が書かれたのは1980年代の頭。このあと、法人資本主義のあり様がぐらついてくるなかで(法人資本主義はバブル経済の崩壊後,株価低下で評価損となるため,法人による所有株式の売却が進み,持合いの崩壊減少がみられた)、著者は『三菱とは何か―法人資本主義の終焉と「三菱」の行方』を著しています。

戦後世界経済の鳥瞰図

2010-03-09 00:20:28 | 経済/経営
猪木武徳『戦後世界経済史-自由と平等の視点から-』中央公論新書、2009年                          
                       
  新書ながら406ページの力作です。戦後世界経済のデッサンです。それも彫りが深く、力強いデッサンです。

 各章の表題を見れば議論が複眼的で、俯瞰的に展開されていることがわかります。「第2章:復興と冷戦」、「第3章:混合経済の成長過程」、「第4章:発展と停滞」、「第5章:転換」、「第6章:破綻」。

 アメリカを中心とした先進資本主義国、旧社会主義国、アジア諸国、ラテンアメリカ諸国、アフリカ諸国についての記述があり網羅的であるばかりでなく、IMF体制からブレトンウッズ体制、マーシャルプラン、EUの発展、ケインズ政策の功罪、日米経済摩擦、石油危機、雇用(失業)問題、社会主義計画経済の挫折、食料問題、環境問題、バブルの崩壊など経済の各分野への目配りも十分です。

 第1章で著者は5つの視点を示しています。第1は「市場化の動きと公共部門の拡大」あるいは「経済の政治化と脱政治化のせめぎあい」という視点、第2は世界的な規模での「グローバリゼーション」の進展という視点、第3は「平等や公正にかかわる視点」、第4は世界的な統治機構の問題考察の視点、第5は市場の「設計」という視点、以上です。著者による戦後の世界の経済史の要約のなかにこれらの視点がうまく生かされ、それゆえに本書の全体が立体的に構成されることとなりました。

 「通常の経済論議で陥りやすい誤りや、概念と定義に関する通説の怪しさにふれていること」が類書にない特徴と著者は言明していますが(p.ii)、そのとおりになっていて、これらに関しては今後議論を深める契機を与えてくれます。

 一番最後に「知育・徳育を中心とした教育問題こそがこれからの世界経済の最大の課題である」(p.374)と述べていることに注目したいと思います。

 ないものねだりかも知れませんが、アメリカの経済戦略の分析、経済のグローバル化に果たすアメリカの役割の捉え方がやや弱いように思いました。

人間回復の経済学

2010-02-23 00:08:08 | 経済/経営
神野直彦『人間回復の経済学』岩波書店、2002年
                
                    

 これからの日本社会の進むべき道を描いた綱領のような本です。

 世紀の変わり目(エポック),新自由主義的発想により市場メカニズムを過信した「構造改革」が暴走していることへの警告の書です。さらに,人間はホモ・サピエンス,つまり「知恵のある人」であるはずであるがゆえに、人間性の尊重に重きをおいた方向に社会の進路のハンドルを切るべきことを提唱しています。

 財政社会学的アプローチから、「経済システム」「社会システム」「政治システム」のバランスのとれた関係に重きをおいて人間社会総体を構築しなければならないと解iいています。

 具体的には現在の社会を,重化学工業を機軸とする大量生産,大量消費の「ケインズ型福祉国家」の後にくる知識集約型社会へ方向転換の提唱です。そのひとつのモデルがスェーデンの実験,「ワークフェア国家」です。

 ヨーロッパのサステイナブルシィティ,札幌,高知などの都市再生の試みなどに,これからの未来への展望の萌芽をみています。

医療経済学の入門書ということですが、疑問がたくさんありました

2010-01-05 01:11:40 | 経済/経営

真野俊樹『入門 医療経済学-「いのち」と効率の両立をもとめて』中央公論新社、2006年                           

                      
                  



 最近「医療経済学」という分野について、いろいろな論議がありますが、その中身はあまり知りません。その概観をおさえたいと思い、本書を手にしました。

 本書の内容は次のように紹介されています。「よい病院とわるい病院を見分けるにはどうすればよいだろう。レストランや車なら、高い値段のものが質もよいと考えればほぼ間違いはない。しかし医療では名医でも新米の医者でも値段は一緒であり、経済法則は働いていないように思える。では、なぜ医療の値段は同じなのか。本書は、医療が持つこのような特徴を、「情報の非対称性」「市場の失敗」等の視点から経済学的に分析し、今後の医療制度改革の方向性を提示する」と。

 著者の意図はそういうことだったのかもしれませんが、内容的にはあまり成功していないように思いました。

 さまざまな学派の経済学が紹介され、経済学の概念が使われています。経済学でいえば、マクロ理論、ミクロ理論、古典派、新古典派、厚生経済学、ケインズ経済学、ゲームの理論、組織の経済学、行動経済学、制度学派、経済学者で言えばスミス、セイ、ハイエク、シュンペーター、ウェーバー、ヒックス、宇沢弘文などなど。

 用語で言えば、方法論的個人主義、合理的経済人、無差別曲線、パレート最適、市場の失敗、公共財、費用対効果、情報の非対称性、ナッシュ均衡、囚人のジレンマ、創造的破壊などなど。

 全体として経済学史上、経済学上の都合のいいところを引っ張ってきて、つけ焼刃的に概念操作をしているだけで、著者はそもそも経済学というものがどういうものかを知らないのではと率直に思いました。なぜならいろいろな経済学の専門用語をくみあわせただけでは、経済学にならないからです。概念を引用されたり、概念を無造作に使われては、引用された側、使われた側は不本意でしょうし、びっくりしてしまうことでしょう。

 こうした経済学に関する叙述の部分を全部削除して、現代の医療制度、介護制度の問題点だけをわかりやすく整理して解説してくれたほうがよかったのではというのが印象です(専門の医療制度、介護制度についてはかなり詳しい方のようですので)。

 章別構成は以下のとおりです。

 第1章 医療経済学を理解するために/第2章 医療経済学の経済学的基礎/第3章 医療経済学とはなにか/第4章 医療と最新の経済学/第5章 医療の仕組みを経済学で分析する/第6章 医療のプレーヤーとその行動―医療経済学の視点による分析 


環境税を考える

2009-12-05 00:05:59 | 経済/経営
石弘光『環境税とは何か』岩波新書、1999年
        
 環境税に関する啓蒙書です。

 地球温暖化対策の最重要課題が市場メカニズムによる経済的手段の活用、環境税の導入という認識から、その効用、企業・国民の反応、官庁の対応、諸外国の経験、クリアすべき問題点など広い視野から当該問題を論じています。

 実は環境税と言ってもいろいろで、狭義にはCO2の排出量抑制を目的とした化石燃料の排出する炭素含有量に賦課する炭素税をさします。広義の環境税は、温暖化現象に限らず、環境に負荷を与える財・サービス全般を課税の対象とし、個別消費税や課徴金である、とするようです。また既存税制のうち、もともとは環境対策と何の関係もなかったものの、その後、環境税として見直されるようになった租税があり、その代表的なものはエネルギー税でだそうです。

 構成は以下のようです。冒頭で、いわゆる環境問題がかつては企業などが個別に対応することで事足りていましたが、地球環境が問題となっている今日では国家間、国家単位でアプローチしなければならなくなっていることを強調しています。もっともな認識です。

 次いで、著者はゆくゆくは炭素税の導入(外部費用を課税によって内部化するピグー課税)が不可欠であると提言していますが、現状では通産省(本書執筆当時の名称)、企業の反対がまだ強く、ままならないので、次善策として既存税制のグリーン化に策をもとめています。

 炭素税に関心がある著者は、最終の5章で、この税の課税ベース(含有量か、エネルギー発熱量か)、課税を生産、流通、小売のどこで行うか、税率の水準をどうするか、税収の使途をどうするか、特定の産業ないし業種に軽減措置は必要か、経済にあたえる阻害効果があるかを、逐一検討しています。

 問題的の書です。この本が書かれたあと、環境庁は炭素税などの構想を具体化し、法制化しようとしたこともありましたが、いまだ実現にはいたっていません。
 
            
       

「改革」の連続だった平成年間の結末

2009-11-18 00:32:37 | 経済/経営
紺野典子『平成経済20年史』幻冬舎新書、2008年

                          
平成経済20年史

 平成20年間の経済を回顧し,この間に一気に疲弊していった日本社会のプロセス,その仕立て人を究明した快著です。

 著者はまず,この20年間が「改革」の連続,オンパレードであったと指摘しています。細川改革,橋本改革,小泉改革,なかでも橋本改革はきわめて多岐にわたる「6大改革」でした。「行政改革」「財政構造改革」「金融システム改革」「経済構造改革」「社会保障改革」「教育改革」と言った具合です(p.85)。

 「改革」はこの間オンパレードでしたが,少しでも国民生活の向上に寄与したものはあったのでしょうか。「否」,それどころか国民生活を危殆に瀕せしめた,といのが著者の結論です。政策の過ちということもあるでしょうが,結局,アメリカの言いなりである為政者,財務省,日銀のご都合主義がその原因です。

 効果的宣伝がその背景にありました。たとえば「財政の赤字」。著者によれば「債務残高」と「(財政)赤字」は意味が違うのです。しかし,前者を後者だと強弁して,必要以上に財政構造の悪化を宣伝したのはその好例です。

 また,年金財政逼迫をことさらに強調し,争点をずらしたのもその例にあげてよいと言っています。「年金財政はパンク寸前」とか「日本の医療費は高い」も含め,総じてマスコミによって喧伝される危機意識の扇動には注意したほうがよいようです。

 年金財政は実は黒字[p.324-]らしいし,日本の国民一人当たり医療費の対GDP比はOECD諸国加盟国30カ国のうち21位だそうです(p.338)。

 結局,年金問題で矢面にたって批判されたのは厚生労働省でしたが、背後で動いていたのは,実は財務省,主犯は財務省でした(p.319)。

 対外的要因もあります。聞こえのよいグローバルスタンダードがアメリカスタンダードに他ならないことは,ようやく多くの人が理解できるようになってきたようですが,とみに強まっているのがアメリカをはじめとする外資の圧力です。

 「改革」がアメリカの対日要請の焼き直しであることも事実のようです。国民生活がなおざりにされたのは,為政者も政府もそこに関心がないからであり,政策,「改革」の目的が景気回復ではなく,グローバルスタンダードの遵守,財政改革に重きがおかれたからです。

 一体何のためのBIS規制であり(p.149-),時価会計制度の導入だったのか(p.397-)? 本書は,アメリカと財務省が主導する「改革」をやめれば,国民生活も日本経済もよくなる,という一文で締めくくられています(p.403)。