↑ ロケ時のスナップで左から南田洋子、一人置いて八潮悠子、私、根上淳
です。何でこの写真に洋子ちゃんが写っているのか、全然思い出せません。
根上淳さんと私の出会いや付き合いは、このブログで去年の1月7日に書きまし
たが、もう少し詳しく述べたいと思います。
昭和33年(1958)に製作された「共犯者」は、物語の背景が福岡であり大々的な
福岡ロケをやりました。
「共犯者」は大映では珍しい松本清張の原作(短編小説)の映画化で、監督は田
中重雄、出演者は根上淳・船越英二・叶順子・高松英郎・若松和子・八潮悠子・
山茶花究と賑やかでしたし、当時は結構話題になりました。
根上さんは昭和25年(1947)に大映入社、大映演技研究所の3期生です。
デビュー作は「母三人」(1949)で、当時、柔道もので人気が出た菅原謙二と人気
を争いました。
彼は昭和42年に大映を退社していますが、ラストは「砂糖菓子が壊れるとき」(19
67)まで113本の大映作品に出ていて、中にはアメリカ映画「八月十五夜の茶屋」
の出演もありす。
大映後はテレビ出演が主になりました。昔から根上ファンだったというペギー葉
山さんと結婚したのは平成40年(1965)で、二人して書道の展覧会に出展するな
ど、芸能界一のおしどり夫婦と言われたくらいです。
話はさかのぼりますが、根上さんとは「共犯者」でご一緒したことから付き合いが
始まりました。暫くして彼から連絡があり、松尾親代(新人女優)が最近仕事が少
なく、ほとんど九州の飯塚市にある実家に帰っているので、時々遊んでやってく
れないかと言う内容でした。(この話の経過は当ブログの平成24年4月5日にご
紹介済みで、私のブログを見た松尾親代さんの娘さんからのお便りで親代さん
の消息が判りました・・・)
大映が倒産して、私が畑違いの玩具会社ツクダにいた時、会社のパーティに呼
んだのがペギー・葉山さん。根上さんがペギーさんと一緒に会社にやって来て劇
的な再会になりました。
その後は時々電話をしたりしていましたが、時々はペギーさんが電話に出てきた
りして・・・。
根上さんが亡くなったのは平成17年(2005)10月24日、82歳でした。平成10年に脳
梗塞で倒れた後、自宅で療養中だったのですが、再起出来なかったのがとても残
念です。
彼が亡くなるまで連絡を取り合いましたし、年賀状の交換もしていました。かなり
紛失しましたが、ユニークで楽しいご夫妻の年賀状を何枚かご紹介します。
↑ 珍しく愛息の名前入りです。
↑ 私もロケ・スタッフの一人として参加していて、上記の写真は根上淳が博多の櫛田神社前を走り
去って行く場面で、見物者の前にメガホンを持って座っているのが私です。
楽しみに見させていただいています。
また、映画という芸術に係わっていらしたので審美眼
にすぐれておいでやし、愛情をもった苦言をていしてい
るんやなぁ~と映画のコメント観ています。
こちらこそご無沙汰ですみません。お元気ですか?
最初思っていたよりブログを継続させるのは、毎日書くこともそうですが
中々大変です。
が、そのように言っていただくと、もう少し続けようの気持ちが湧いてきます。
映画の感想も、全般的に質が低下している現状が悲しく、もっと勉強して
頑張ってもらいたいの気持ちを込めて書いているつもりです。
どうかこれからも宜しくお願いします。
お立寄り有難うございます。
お互いに映画が好き同志です。これからも宜しくお願いします。
「共犯者」は私が九州支社に赴任して初めて携わった作品でもあり、
思い出一杯です。私も何とかして見たいです。