監督昇進第一作で張り切る富本壮吉監督。
↑ 右端は私。 ↑ 出演者の一人、石井竜一。
今回は、私が二度も九州ロケでご一緒した富本壮吉監督のことから入って行き
たいと思います。
富本監督は陶芸家・富本憲吉さんの息子で、増村監督に次いで東大卒で大映
に入社、企画から助監督を経て監督に昇進、第一作が宮崎県新田原自衛隊基
地でロケを行なった「暁の翼」でした。
それから暫らくして私と再びご縁があったのが柳川市~阿蘇~別府で大々的な
ロケをやった「妻の日の愛のかたみに」でした。
「暁の翼」(1960)は、太平洋上で遭難した自衛隊ジェット機を救助した実話を描
いた、「257号機帰還せず」の映画化です。
富本監督は昭和2年生れで、溝口健二・島耕二などに師事した人ですが、学究
肌であるものの温厚な人柄で、誰もが話しやすい監督との初印象でした。
私たちは福岡から各マスコミの記者を引き連れて空路宮崎入りし、航空自衛隊
新田原基地に馳せ参じましたが、ズラリ並んだジェット戦闘機や航空自衛隊基
地の模様が当時は物珍しかった思い出が残っています。
「妻の日の愛のかたみに」(1965)は、柳川市に住む歌人・池上三重子が記した
同名手記を、木下恵介が脚色した夫婦愛の物語で、大掛かりな九州ロケをやり
ました。
原作者との打ち合わせ、ロケの準備などロケ隊が入ってくる前にやらなければ
ならないことが多く、関係先を飛び回りましたが、愛するが故に別れたもと旦那
から映画化中止の要望が出て、監督と一緒に関係者懇談をやって解決したこと
などがありました。
この前後のことなどを、当ブログ2011年11月18日と11月25日の2回に分けてア
ップしていますので、若しご興味のある方は遡ってください。
私自身このロケ中に大きな出来事があったのです。
ロケに参加していた私は支社に呼び帰され、引続いて東京本社にも出向くこと
が起こりました。
それは人事移動の問題でして、それまで九州支社宣伝課係長だった私の異動
話で、当時支社次長兼宣伝課長だった先輩が本社宣伝部長に転出するのを機
に、私も東京に呼び戻したらという話もありましが結局、支社宣伝課長をやるの
はお前しか居ないとかなんとか言われて昇格することに。
この時東京に転勤していたらそのまま今でも東京に住んでいたでしょう。そんな
事で柳川ロケは途中で抜け出したのですが、ロケ後半の阿蘇ロケには再び参
加して若尾ちゃんの写真を撮りまくりました。
PS:富本壮吉監督は、それから3年後に大映を退社、テレビ中心で活躍されま
したが、1989年に逝去されました。
もう一つ。昨日キャナルシティで映画のチラシを配る男女に会いました。
なんと男性は「池島譚歌」の荻野欣士郎監督で暫らく立ち話。荻野監督は、
もと大映の弓削太郎監督(故人)の甥です。私も早目に「池島譚歌」見る約
束をしました。
↑ 阿蘇山の火口で若尾ちゃん。
↑左から私、上原明(当時撮影助手)小原譲二(撮影) ↑ 若尾ちゃんと私。
↑↓ 阿蘇山麓の草千里で撮ったものです。
阿蘇での若尾ちゃんの写真は珍しいと思います。喜んでいただき嬉しいです。
上原氏に私が電話したのは、弓削さんの甥の話でした。
上原氏は弓削さんと何本か一緒に仕事していますので驚いていました。
若尾さんファンの熊本県民という私にとって、阿蘇に佇む若尾さんのお写真は感涙ものです(苦笑)。
恥ずかしながらこの作品はいまだ鑑賞する機会に恵まれておりませんが、いろいろな意味で観てみたい作品です。
弓削太郎監督の甥御さんも監督になられていたのですね。
以前調べた時に、弓削監督がお亡くなりになられた顛末を知って胸が痛みました。なかなかユニークな作品をたくさん撮られていただけに、何とも残念なお話です。
ささやかな私のブログですが、見つけていただき嬉しいです。
叶順子は最近、大映のOB会などに出てきていますので、
近い内に最近の写真をお見せ出来るかも知れません。
田宮・藤のことは2月25日と4月29日にアップしていますので、
良かったらご覧ください。