小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

刃傷松の廊下の「真相」  6

2006-11-03 19:34:14 | 小説
 島根の津和野町で土産の定番は「源氏巻」という菓子だという。こし餡をカステラ風の生地で包んだ長方形の巻き菓子である。この銘菓の由来に、吉良上野介がからんでいる。
 銘菓の由来にいわく。勅使饗応役の津和野藩主亀井茲親は吉良上野介から愚弄、ないし辱めをうけて上野介を斬ろうとしたのだが、家老の多胡真蔭が機転をきかして上野介にとりいって事なきを得た。そのとりいるために使った進物「小判包みの菓子」が「源氏巻」だった、というのだ。山陰の小京都とされる城下町津和野では、この銘菓の由来は知れわたっているらしい。冒頭に紹介した藩史略年表の記事と同じことがらが、庶民レベルにまで知れわたったのはなぜか、またいつの頃からか興味のわくところであるけれど、ここでは上野介が賄賂を受け取ったのは事実であるらしいと確認すればたりる。
 浅野内匠頭は、上野介に賄賂を渡さなかったため陰湿ないじめを受け、それが刃傷の原因とする説を最も早く打ち出したのは前述の室鳩巣である。彼の『赤穂義人伝』は元禄16年10月に書かれている。刃傷事件から数えても、3年未満に書かれた史料ということだ。
 幕府の公式記録である『徳川実紀』は、刃傷の原因をやはり「賄賂」説とするが、こちらのほうは事件後100年以上経ってから執筆、完成しているから、こと刃傷事件に関しては史料的価値は小さい。それでも「世に伝ふる所ハ」として、賄賂を得られなかった上野介のいじめを、わざわざ明記しているのだ。
 こうした賄賂説からすると、内匠頭はけちで融通のきかない殿様であり、また身近に津和野藩の多胡真蔭のような機転のきく人物がいなかったことになる。
 実はここのところで山鹿素行に目を転じなければならない。

(追記:津和野には現在10軒以上の源氏巻メーカーがあるらしい。三松堂という菓子舗のHPにある源氏巻の由来は、短いが良心的な記述だと思う)

刃傷松の廊下の「真相」  5

2006-11-01 20:30:53 | 小説
 東山天皇は3年前の亀井茲親と吉良上野介のいきさつを知っていて、こんどの刃傷事件は同じ状況と判断したのである。
 ということは亀井茲親と朝廷は、かなり親密な間柄にあったと推測されるわけだが、そのことを証明する状況証拠はある。。たとえば宝永5年(1708年)8月に亀井茲親は上洛して、禁裏造営を手伝っている。手伝った、という言い方はなまぬるいかもしれない。藩の財政をやりくりして、なんと3万5千840両という大金を朝廷のために投じているからだ。東山天皇の在位22年目のことだった。
 その亀井茲親は藩の文教政策にも熱心な殿様だった。家臣を儒学者の室鳩巣や山鹿素行に師事させ、積極的に学ばせたという。
 さてお立会い、と声に出したいような気がするではないか。あの討ち入りの日、吉良邸に響いたのは大石内蔵助の山鹿流の陣太鼓だった。山鹿素行といえば、赤穂に長く滞在して赤穂藩士の教育をになった兵学者(儒学者でもある)であった。
 赤穂藩と津和野藩は、山鹿素行を媒体とした情報ネットワークで結ばれていた、といってよい。
 だからこそ浅野内匠頭もまた、3年前の亀井茲親の憤りを知っていた、と私は思う。つまり、内匠頭の刃傷の理由は津和野藩主の抱いた感情と同質だった。この憤りは自分ひとりのものではないぞという思いが、その激情をどこかで後押ししていたのではないか、と考えるのである。
 ちなみに津和野藩士たちの師となった室鳩巣は内匠頭、および赤穂四十七士のつねに味方になった学者であった。