小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

皇后の夢と龍馬 -7-

2005-09-26 17:23:11 | 小説
 皇后の父、一条忠香はいわゆる安政の大獄に連座したことがあった。龍馬の妻おりょうの父、楢崎将作もまた安政の大獄に連座投獄されている。一条家は、ある意味では龍馬と接点を見つけやすいのではと、最初に私は思った。龍馬は一条家に行ったことがあるのではないのか、あるとすれば文久2年秋頃かと、龍馬の年譜を眺めながら、ふと、その記録が一条家側にのこされてはいないかと気になった。一条忠香の12巻もの膨大な日記が元公爵一条家に所蔵されているらしい。しかし日本史籍協会によって公刊されているのは4巻に抄録されたものである。そこからは私が期待したものは得られなかった。
 皇后と龍馬を「夢」以前に結びつける接点は、では、ほかにないのか。ないはずはなかった。皇后のお傍近くに仕えた二人の女性の存在が鍵だ。この二人のうちのいずれか、あるいはどちらからも、皇后は龍馬に関する「情報」を入手していたと思われる。
 まず、そのうちのひとりとは皇后のいわゆる家庭教師だった若江薫子。皇后が入内後も宮中に伺候、皇后を教導している。女ながら過激な尊王思想家で、新政府に西欧化を批判した建白書を幾度か提出し、明治2年頃には宮中出入り禁止、あげく幽閉されたとも伝えられている。通称は文。号は秋蘭。天保6年生まれで龍馬と同い年である。新政府の生誕を見ずして、維新前夜に暗殺された龍馬の事積を皇后に教えたのは彼女ではないのか。皇后は龍馬の夢をみる以前から、妙に船に興味を持ち、海軍好きだった。
 明治12年4月、新造の軍艦、扶桑、金剛、比叡の見物。この日、詠んだ歌は「なみかせに身を任せても君か為船ならすらし御軍(いくさ)のため」あたかも、天皇のためなら自分が船を操練してもよいといった気概である。
 明治14年5月、横浜からお召し艦の迅鯨に乗って横須賀まで単独で行啓、水雷艇からの水雷発射を視察、上機嫌だったとか。
 明治19年3月には軍艦武蔵の進水式に天皇の代理で臨席。軍艦の艦上にいるのは油くさいと嫌い、どちらかといえば陸軍びいの天皇とは逆に皇后は海軍びいきだったのである。皇后が軍事行事に行啓することは珍しがられた時代である。この皇后の船好きは注目すべきなのだ。

 

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