さて、ふたつの文章がある。
ひとつめ。「坂本家の墓所近くに岡上家の墓所があり、その中に公文婦喜の石碑が立っている。明治四十五年五月十九日没、享年七十七歳」(土居晴夫『坂本龍馬とその一族』新人物往来社)
ふたつめ。「婦喜は明治四十四年四月十九日に亡くなった。ところが、その五月二十二日の土曜新聞に左記のこんな死亡広告が載ったのである」(武井優『龍馬の姪 岡上菊栄の生涯』鳥影社)
かたや墓碑、かたや新聞の死亡広告に準拠していながら、なぜ婦喜の死亡年月日がこうも異なるのであろうか。おそらく死亡年は武井氏の明治44年が正しく、死亡月日は土居氏の5月19日が正しいのではと推測しているが、問題は武井氏のいう「左記のこんな広告」の文面である。
「岡上婦喜 儀 久々病気處養生不相叶十九日午前七時死去候旨御知ラセ申上候 廿二日五午后三時鷹匠街住宅出棺 親戚」
となっていて、「栄吾養母 菊栄母」と婦喜の名の下に小文字で列記されているのだ。
栄吾は菊栄の夫である。だから義母と書くところを「養母」としているが、この広告はあきらかに婦喜が菊栄の母だとしているのだ。
ところが岡上家でこの死亡広告を出したものが見当たらないという奇妙な広告である。さらに土居氏も紹介しているように婦喜の墓碑銘は「公文婦喜」であった。婦喜は岡上に入籍せず、生涯を公文婦喜で閉じたのだった。だから「岡上婦喜」という死亡広告はありえないのである。
なぜこのような広告が出されたのか。
考えられることはひとつしかない。菊栄は坂本家と血のつながる人物ではないとアピールしたかった者が出したのだ。武井優氏もそう考えている。
そのことは、かえって菊栄が乙女の子であることを物語っているように思われる。後世の史家は新聞の死亡広告にだまされてはいけない。
ひとつめ。「坂本家の墓所近くに岡上家の墓所があり、その中に公文婦喜の石碑が立っている。明治四十五年五月十九日没、享年七十七歳」(土居晴夫『坂本龍馬とその一族』新人物往来社)
ふたつめ。「婦喜は明治四十四年四月十九日に亡くなった。ところが、その五月二十二日の土曜新聞に左記のこんな死亡広告が載ったのである」(武井優『龍馬の姪 岡上菊栄の生涯』鳥影社)
かたや墓碑、かたや新聞の死亡広告に準拠していながら、なぜ婦喜の死亡年月日がこうも異なるのであろうか。おそらく死亡年は武井氏の明治44年が正しく、死亡月日は土居氏の5月19日が正しいのではと推測しているが、問題は武井氏のいう「左記のこんな広告」の文面である。
「岡上婦喜 儀 久々病気處養生不相叶十九日午前七時死去候旨御知ラセ申上候 廿二日五午后三時鷹匠街住宅出棺 親戚」
となっていて、「栄吾養母 菊栄母」と婦喜の名の下に小文字で列記されているのだ。
栄吾は菊栄の夫である。だから義母と書くところを「養母」としているが、この広告はあきらかに婦喜が菊栄の母だとしているのだ。
ところが岡上家でこの死亡広告を出したものが見当たらないという奇妙な広告である。さらに土居氏も紹介しているように婦喜の墓碑銘は「公文婦喜」であった。婦喜は岡上に入籍せず、生涯を公文婦喜で閉じたのだった。だから「岡上婦喜」という死亡広告はありえないのである。
なぜこのような広告が出されたのか。
考えられることはひとつしかない。菊栄は坂本家と血のつながる人物ではないとアピールしたかった者が出したのだ。武井優氏もそう考えている。
そのことは、かえって菊栄が乙女の子であることを物語っているように思われる。後世の史家は新聞の死亡広告にだまされてはいけない。