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「イワン・イリッチの死」

 トルストイの「イワン・イリッチの死」を読んだ。なんだかこのところトルストイばかり読んでいる気もするが、「光るあるうちに光の中を歩め」を読み終わって、書棚に返したときに薄っぺらな岩波文庫を何冊か見つけた。モリエール「ドン・ジュアン」、ビアス「いのちの半ばに」、ラシーヌ「フェードル」、ソポクレース「アンティゴーネ」、そして「イワン・イリッチの死」。もう最近は忙しいばかりで、本を読む時間があまりない。しかし、本を読まないでいると不安になってくるのが若い頃からの強迫観念で、まとまって読む時間はなくとも、これくらい薄い本ならば何とか読み通せるだろうと、1冊ずつ読んでいくことにした。その手始めがこの「イワン・イリッチの死」。
 トルストイをまとめて読んだのは、高校生の時。「戦争と平和」も読んだし、「アンナ・カレーニナ」も読んだ。今思えばどこにそんな時間があったのか、と不思議なくらいだが、あの頃が私の人生で読書欲が一番旺盛だったのだろう。この「イワン・イリッチの死」もその頃買ったものだ。さすがに紙は焼けているが、読んだ形跡は残っていないので、読まずに35年近くも書棚に埋もれていたようだ・・。そんな本を改めて読めるとはなんとも有り難い話である。

 トルストイよりもドストエフスキーに深く影響を受けた私は、どちらかと言えばトルストイを舐めていた。生きることの苦悩を表現したドストエフスキーに比べて、トルストイは呑気な人であったとさえ思い込んでいた。ところが、この本を読んでその偏狭な思いが一変した。トルストイはすごい!!
 順風満帆に生きてきた判事が、ちょっとしたケガから病を得る。日増しに腹部の痛みが強くなり、何人もの医者に診てもらうが病状は一向に改善せず、悪化の一途を辿る。痛みに耐え、迫り来る死の恐怖と戦いながら、何とか生き延びようと希求するも、たったひとりで病に立ち向かう孤独感が心身を苛み、まさに生き地獄の苦しみを味わう。その過程をトルストイは克明に書き進める。まるで自らが体験した苦しみであるがごとく、その筆致は辛酸を極める。読む者はいつの間にか、イワン・イリッチの痛みを己の体の中に感じ、孤独感を己の心の中に感じる・・。
 こんな悲惨な状況で苦吟し続けたイワン・イリッチの最期の時をトルストイはこう記している。

『古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声を立てて言った。「なんという喜びだろう!」』(米川正夫訳)

 死の間際に光に包まれるとはいかにもキリスト教的だが、これをどう解釈したらいいのだろう。現実的には錯乱状態を迎えた、ということかもしれないが、それを遙かに超越した意味があるように思う。それ何だろう・・。現世的に生きてきた者が最期に神の国へと導かれたということなのだろうか。それとも死とは一切合切を包み込むだけの広がりを持ったものだというのだろうか・・・。
 その答えは私が死を迎えるときにもたらされるかもしれないが、できればイワン・イリッチのような激烈な死ではなく、穏やかな死を迎えたいものである・・。

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