塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

婚外子の相続格差違憲判決所感

2013年09月07日 | 政治
  
 今月4日、結婚関係にない男女間の子(婚外子/非嫡出子)の遺産相続分を、結婚している夫婦の子(婚内子/嫡出子)の相続分の半分とする民法の規定について、憲法の規定する「法の下の平等」に反するとして、違憲とする最高裁の決定が出された。私は法律に関しては門外漢だが、素人目の直感として、この判決には問題があるように思う。ただし、自民党の古くさいロートルたちの言っているような「家庭の一体感の喪失」や「家庭崩壊につながる」といった理由からではない。

 今回の決定について、最高裁は「婚外子の出生数」の増加や、「家族の形態の多様化」を指摘し、民法の規定が時代の変化に即していないと判断したようだ。実際に、欧米諸国で婚外子と婚内子の相続分に格差を設けている国はなく、国連からも是正勧告を受けているとされる。

 しかし、欧米諸国で婚外子が増えているのは、入籍をしない事実婚の形態の家族が増加しているからで、今回の裁判のケースのような、結婚して子供もある男性が不倫をしてさらに婚外子をもうけるというものではない。婚外子と婚内子で差があってはいけないというのは、事実婚の夫婦の子供と入籍した夫婦の子供との間の格差という意味であると思われる。家族の形態の多様化というのも、まさに事実婚か法律婚かという意味であって、1人の男性(ないし女性)がもつ家庭の数が1つか複数かという意味では決してないはずだ。そもそも、不倫に関しては、法律だけでなくキリスト教という宗教理念上の縛りももつヨーロッパの方が厳格なはずなので、今回の裁判のようなケースが、家族の多様化した一形態として容認されているとは考えにくい。

 すなわち、問題の一番の根本は、事実婚の夫婦から生まれた婚外子と法律婚の夫婦から生まれた婚内子の格差問題を、婚内子をもつ男性(ないし女性)が配偶者以外の異性との間に婚外子を設けた場合(要は不倫)の両者の立場の区別の問題とごちゃまぜにしてしまっている点にあると思われる。今回の決定に携わった最高裁の裁判官たちは、自分たちが開明的な判断を下したと考えているのだろうが、その判断の拠って立つ前提が、そもそもズレているのだ。ここでは、以後混乱を避けるため、夫婦関係にある男女(事実婚・法律婚を問わず)の間に子がありながら、いわゆる不倫関係をもった異性との間にも子をもうけた今回の裁判のような場合の、前者の子を「嫡子」、後者の子を「庶子」と呼ぶことにする。不倫関係にない事実婚の夫婦の子供も「婚外子」となってしまうこととの混同を避けるためであって、他意はない。

 感覚的に考えてみても、自分の親が亡くなったときに、突然故人の婚外子(庶子)なる人物が現れて遺産は平等に分けてちょうだいなどと言われたら、遺産の額に関係なくとても容認できるものではない。親の面倒をみたわけでもなく、家庭を続けることだって、息をするのと同じというわけにはいかない。「家庭」を維持するための努力という点で明らかに差のでる嫡子と庶子で、受け取る対価たる遺産の額が同じというのは、それこそ不公平というものだ。

制度的な面に戻ると、今回の決定によって危惧されるのは、結婚制度の形骸化である。もっと極端に考えると、これは一夫一婦制の否定ではないかとさえ感じられる。嫡子と庶子の間に区別をもうけないとすることは、1人の男性(ないし女性)が、複数の異性との間に複数の家庭をもったとしても、それは全て平等に認められますよ、ということになる。つまり、事実上の一夫多妻制(および一妻多夫制)の容認につながるといえる。

 また、婚姻によって正統を主張できた配偶者の側にとっても、結婚するメリットは相対的に低下せざるを得ない。結婚することによって、新たな「家庭」を築くこととなった夫婦には、社会的にも制度的にもさまざまな努力が要求される。夫であれば夫として、妻であれば妻として、こなさなければならないイベントが多々あり、それは配偶者が亡くなった時にもついて回る。しかし、そのような努力の必要のない不倫相手との間の庶子と、嫡子との間で遺産相続額に差がないとすれば、いったい何のための結婚なのか。結婚の価値に疑問が生じてしまう。

 誤解のないようにことわっておかなければならないが、私は婚内子と婚外子の間で「差別」をするべきだなどとは、断じて言っていない。とりわけ、受けられる制度などの面で、差が出てはいけないと考えている。しかし、遺産の分配に関しては、きちんと嫡子と庶子の間に区別をもうけなければ、「結婚」という制度を維持した者と破ったものとの間のけじめがつかない。

 今回の裁判で、原告の庶子の方は「出自を選べない子供に何の責任があるのか」とコメントされている。私も、生まれてきた子供には何の「罪」もないと思う。しかし、残念ながら両親には「罪」がある。理由はどうあれ、両親はそれなりの覚悟をもって庶子をもうけるに至ったのだろうから、嫡子と同じようには遺産をあげられないという「罰」を受けるべきなのだ。

 親の方も、もし本当に嫡子と庶子を同等に扱いたいと思っているのなら、元気なうちから遺言をしたためておくなり、あらかじめしっかり生前分与しておけばよいのだ。庶子をもうけていながら、自分の死後のゴタゴタが予測できなかったとするなら、もっとも責任が重いのは庶子の親だろう。

 今回の決定を受けて、国会ではにわかに民法改正の動きが出ているという。前述のとおり、私は法律婚における婚内子と事実婚における婚外子との間の格差は撤廃されるべきだと考えている。しかし、「嫡子」と「庶子」の間の区別は、きっちりと付けられるべきである。すなわち、民法で改められなければならないのは、「婚外子」と「婚内子」の定義のやり直しであり、一番手っ取り早いのは、事実婚の夫婦の子を「婚外子」から分離して「婚内子」と同等に扱うよう規定することであろう。

 抽象的かつ古典的な「家庭」しか想像できない自民党の老人たちに、そのような柔軟な発想ができるかといえば、残念なことに非常に難しいといわざるを得ないが。