塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

人間はどこからはじまるのか:欧州司法裁判所によるES細胞研究の禁止判決

2011年10月24日 | 社会考
    
 横浜ベイスターズが「モバゲー・ベイスターズ」になるとか…。申し訳ないですけど、ちょっとチープな感じの響きに思わず吹き出してしまいました^^;

 さて、ちょうど1週間ほど前の話題なのですが、今月18日、ルクセンブルクの欧州司法裁判所がヒトの受精卵をもととするES細胞(胚性幹細胞)を用いた技術について、研究目的であっても特許を認めないとする決定を下しました。特許を必要としない、すなわち実用化を考えていない研究など基本的にあり得ませんから、事実上研究そのものの禁止を言い渡したのと同義といえます。この判決が発効した時点で、EU内の研究者は海外へ拠点を移さざるを得なくなるため、これまでES細胞研究を推進してきた国では批判が高まっているようです。

 ES細胞とは、人間でいえば受精からまもなくの胚の状態における分化細胞のことです。この細胞は将来的に個体を構成するあらゆる組織のもととなる分化万能細胞であるため、いわゆる再生医療の研究にとって欠かせない材料といえます。ただし、ES細胞は受精卵を破壊することでしか得られないため、倫理上の問題が当初より指摘されてきました。

 それに対して、血や皮下組織など、およそ新しい生命の発生と関係のない細胞から分化万能細胞をつくりだそうというのが、iPS細胞技術です。…などと偉そうにいえるほど詳しくはないのですが、iPS細胞は一般の体細胞の核の情報を書き換え、もとのES細胞だったころへ戻したものということのようです。つまり、iPS細胞そのものの製造には受精卵の破壊といった倫理的な問題は生じないものの、その研究のためには当然サンプルとしてのES細胞が必要になりますから、欧州司法裁判所の決定はiPS細胞の研究をも不可能にするものと考えられます。

 ところで、やれクローン技術だES細胞だと問題になるとき、たいていの報道では倫理上・宗教上の問題としてやや曖昧に片づけられてしまいます。欧州司法裁判所は、いったいに何を判断基準に今回の判決を下したのでしょうか。

 このように問われると、困ってしまう方は結構多いのではないでしょうか。日本ではこれまであまり真剣にクローンやES細胞に関する議論がなされてきたようには思われません。世界的に議論があることは承知しつつも、何となく倫理的によくない気がする、という程度で深く考える機会はあまりないように感じます。

 私が今回の記事を書くきっかけとなった議論の場でも、どうもなかなか納得してもらえなかったのですが、論点は比較的明確で、「人間(あるいは生命)はどこからはじまるのか」という1点にあります。つまり、どこからが人間(生命)でどこまでが人間(生命)以前なのか、という問いです。

 たとえば、ドイツではそもそももとから胚の利用は禁じられていました。その根拠は、「人間の尊厳は不可侵である」とするドイツ基本法(事実上の憲法)第一条です。つまり、「人間」の尊厳は不可侵である→受精卵は人間のはじまりの萌芽である→受精卵は不可侵である、となるわけです。

 逆に、受精卵がまだ人間とは認められないと考えれば、倫理上も宗教上も胚の利用は問題なくなるということになります。今回の欧州司法裁判所の判決は、ES細胞を抱える胚がすでに人間(のはじまり)であると認定されたことが第一のポイントとなるわけです。

 ところで、ES細胞やiPS細胞による再生医療は、これから最も期待される医療技術の1つといえるでしょう。その希望の技術を根っこから禁じているドイツの姿勢の裏側には、第二次世界大戦時にナチスが行った非道に対する強い反省がこめられているといわれています。翻って、同じように人体実験や侵略行為、軍部による国民への弾圧などを行ってきたはずの日本では、生命医療技術に関する倫理上の議論はほとんどゼロといってよいほどありません。日本は、今回の判決で流出するであろうEU圏からの研究者の大きな受け入れ先の1つとさえいわれています。

 何もドイツのようにしろというわけではありませんが、死刑制度や妊娠中絶などと同様、どうも日本には生命倫理に関する議論となると後回しになる傾向があるような気がします。今回の欧州司法裁判所の決定についても、日本ではほとんど報道されていなように思われます。そのような風潮の中、「人間(生命)はどこからはじまるのか?」という問いは、比較的議論しやすい導入的なテーマのように思うので、これを機会にみなさま一度親しい人たちの間ででも話し合ってみてはいかがでしょうか?

   



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