塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

東日本大震災:震災を踏み台にする人々

2011年05月19日 | 東日本大震災
  
 前回震災の話に特化しないと宣言しておきながら、いきなり震災関連の話です。すみません。ただ、どうしても気になることがありましたので。

 先日、私は普段はまったくといっていいほど読まない青年誌をふと手に取ってパラパラとめくりました。モーニングだったか何だったか、たまたま目に留まったのは「課長(今は社長?)島耕作」でした。本当に偶然というか、運命的な必然にも思えるのですが、そこに載っていたのは震災関連の話でした。韓国の有名メーカー(どうみても○ム○ン)が、被災地の避難所で自社製品を寄贈して性能をアピールするというものでした。実際のところ、復興の過程でそう簡単に国内製品が取って代わられるようには思えないのですが、ありうべき恐ろしい話でもあります。

 ですが、今回の本題はこれではありません。震災復興をチャンスとみることは、企業や起業家なら、ほめられたことではないかもしれませんが当然のようにも思います。しかし、これが文化面に携わる人であればどうでしょう。残念ながら、文化活動を生業とする人々の中にも、震災を売名のチャンスと捉えている人がいるように思われます。

 今になってふと思いついたというわけではありませんが、こうして記事にしようと考えたのは、ある小説がきっかけでした。その小説は、仙台のアーケード街南端あたりの書店で買ったものです。復興のためには、やはり土地のものや土地の店で買い物をしようということで、何冊か買いこみました。その中の1冊に、仙台を舞台とした郷土作家(?)の作品がありました。太平洋戦争の終戦直後の混乱の時代を描いたもので、戦争孤児となった青年2人の短い生涯を扱った小説でした。

 震災から2か月でそう簡単に小説が書けるものではないでしょうし、おそらく既刊の作品を仙台が舞台ということで急遽増刷したものなのだろうと思いました。出版社も、本音はともかく、復興支援のために仙台の作品を拾って刷ったというのなら、これを買うのに躊躇はいらないだろうと思いました。

 ところが、先ごろ読み終わって巻末の解説を見たところ、私は驚きました。そこには何度も「3.11後」という言葉が躍っていました。「9.11後」の間違いじゃないかと思って見返しましたが、やはり「3.11後」、つまり東日本大震災のことを指していました。そして、小説自体は3年前の平成20年に発表されたものでした。つまりこの本は、わざわざ解説を付け直し、新刊として大々的に売り出していたのです。

 これが、復興に何か関連のある内容であれば文句はありません。たとえば同じ戦後でも復興期に希望を見つけて立ち直っていく話とか。ところが、この小説は戦後を扱っていながら復興の「ふ」の字も引っかかりません。震災にかこつけられる部分は、まったく舞台が仙台であるというだけなのです。

 さらに、掘り出し物の隠れた作家であるというのなら、幸か不幸か震災を機に芽が出るということもあるでしょう。ですが、その内容は残念ながら優れているとはいえないように感じました。おそらく、普通に売り出したのではさほど日の目を見ることはなかったでしょう。震災後に、震災にかこつけた販促に乗っかったからこそ、こうして大々的に書店に並ぶようになったものと思われます。

 もちろん、本人にその気があったかは分かりません。ですが結果として、この作家は震災をきっかけに、震災を踏み台にして世に出ることになりました。こうした、震災をチャンスにステップアップを図った活動家というのは、実際のところ少なくはなかったのでしょう。たとえば震災後には、多くのミュージシャンによって雨後の筍のように復興の歌が制作されました。多くは純粋に被災者を慮ったり、復興を支えたいという気持ちで作られたありがたいものなのでしょう。ですがおそらく、そして確実に、これをきっかけに世に出よう、もっと邪推すれば小金を稼ごうとした人々もいたのだと思います。

 私の記憶に残っている音楽家に、名前は忘れましたが仙台生まれで現在はニューヨークで活躍しているという女性がいました。この人は、震災後にニューヨークで仲間を集めて「生まれ育った仙台のために」チャリティーコンサートか何かを開いたということでした。ただ、本当に日本や仙台に愛着があるのならまず日本へ来るべきでしょうし、その方が日本で名を売るためにも好都合なはずです。この女性がコンサートで音楽仲間と楽しそうにワイワイ演奏していたところをみると、どうも真の目的は「ニューヨーク」での売名にあったんじゃないかと推測されます(もちろん何も考えていなかったのかもしれませんが)。

 まあ、このように勘ぐり出したらきりがないところで、表向きはなべて善意から出たものと受け取るより他ありません。しかし、文化・芸術が市場経済の一分野に成り果てつつある今日、文化面で活躍しようという人たちが企業や起業家と同じ思考で動いているとしたら、悲しいとしかいいようがありません。

 さて、最後に記事の主筋とは関係ない蛇足をひとつ。先ほどの小説について、勝手に辛口な評価を下しましたが、内容とは異なる点でもうひとつ気になることがありました。この小説、仙台の地名やら通り名やら、逐一実名が挙げられています。最初は面白いと思いましたが、あまりに続くと段々辟易としてきました。たとえばこれが東京や京都といった、行ったことはなくても地名や通り名が知れ渡っているところなら、いくら実名を挙げても問題はないでしょう。ただ、これが仙台をはじめローカルな土地となると、実名を出すよりも描写で仄めかす方がいいように思うのです。私は仙台なら、○○町だ○○通りだと出ればどこだか分かります。しかし、仙台に縁のない方が見れば、どこのことだか分かりませんし、さほど興味もわかないでしょう。案の定、わざわざ実名を挙げたあとで、そこがどこでどういうところか懇切丁寧に解説している箇所が多々ありました。まるで、芸人が一度スベったネタを分かりやすく説明し直しているような恥ずかしさを覚えます。

 ローカルネタというのは、地元の人だけが分かるキーワードをちらつかせて、知ってる人がニヤリとするところに醍醐味があると考えています。たとえばこの記事の最初、「仙台のアーケード街南端あたりの書店」といえば、仙台の人ならおそらく皆「ああ、あそこの○○堂ね」と気付きます。これで分かる人は分かるし、分からない人は実名を挙げても分かりません。いくら郷土作家、郷土作品だからといってただ名前を並べただけでは塩味だけの料理のようにすぐに飽きてしまうように感じました。