見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

台湾旅行2017【初日】故宮博物院

2017-12-18 23:33:32 | ■中国・台湾旅行
 台湾に行ってきた。1日休暇が取れそうと判明したのは10日くらい前で、慌ただしく手配をして、2泊3日旅行に飛び出した。初日の朝は、ちょっと早起きがつらかったが、成田空港を9:40に出発し、12:55桃園空港に着いた(キャセイパシフィック便)。

 桃園空港と台北市内を結ぶMRT(2017年3月開通)には初めて乗る。昨年、購入した「EasyCard」を持っていたので、スムーズに乗車。ここまで何も問題なしと思っていたら、スマホに着信。職場の電話番号である。一度は無視したのだが、繰り返しかかってくる。え~い、あきらめて、空港から2つ目の駅(山鼻)で、電話に出ながらホームに下りる。高架のホームは緑の山林に囲まれ、全く人家の見えない駅で、一瞬、不安を感じたが、次の電車が来るはずと信じて下りる。電話は職場の会計課長からの問い合わせで、「いや私、今日は休暇で東京にいないんですよ~」とごにょごにょ答えて、なんとか解決。次の電車で台北に向かった。

 中山駅近くのホテルにチェックイン。この日は25度を超す夏日。コートを脱いだのはもちろん、薄手の衣類に着替え、セーターも手に持って、観光に出かける。まず、故宮博物院へ。入館は4時近くになってしまうが、この日は金曜日で、夜9時まで延長開館しているのをリサーチ済みだったので、焦らない。士林駅前から「紅30」のバスに乗ると、故宮博物院の構内に入って、本館の下まで連れていってくれることを初めて知った。

 前回、私が2016年5月に参観したときは撮影禁止だったが、その後、2016年9月から撮影解禁の試行が行われ、2016年12月から正式に写真撮影、ビデオ撮影を許可された。ただし、一部の作品には「撮影禁止」マークあり。観客はマナーを守っていて、混乱はなかった。

【101室】「慈悲と知恵-宗教彫塑芸術」
【102室】オリエンテーション・ギャラリー
【106室】「集瓊藻-故宮博物院所蔵珍玩精華展」
【108室】「貴族の栄華-清代家具展」

【105,107室】「ブランドの物語─乾隆帝の文物コレクションと包装の美」
乾隆帝のコレクションの「包装(収納法)」の美しさを主題とし、文物の形態にあわせて誂えた保存箱、考証やカタログの作成、書籍の表装などを取り上げる。



「明帝后像」の布表紙。画像は大明太祖洪武帝・朱元璋の妙に柔和な肖像。



乾隆帝が自分の御製詩集の表紙などに使った染布。漢籍好きなら見覚えがあるかも。



【104室】故宮博物院所蔵善本古書精粋
古籍の写真を自由に撮らせてくれるなんて太っ腹! ただし国宝クラスの「永楽大典」や「四庫全書」は撮影禁止だった。



珍しいものもあった。日本で刊行された「唐土名勝図会」(文化3年、大坂書肆龍章堂刊)、振り仮名つき。木村孔恭著とあって、すぐに分からなかったけど木村蒹葭堂である。



【103室】故宮博物院所蔵清代歴史文書精選
104室がライブラリーなら、こちらはアーカイブ資料。皇帝が朱批を書き入れた奏摺(清の皇帝には満州語の朱批奏摺も残る)、皇帝の起居注冊、実録など、歴史好きには楽しい。



台湾史に関するアーカイブ資料も特集されていた。銅版画「欽定平定台湾紀略」(乾隆帝による台湾平定の記念画)6枚にはちょっとびっくりした。これを平然と展示できるのは、今の台湾の自信かもしれない。



【210,212室】「特別展 国宝の誕生-故宮書画精華-」
ここはさすがに全面的に撮影禁止。しかし堪能した。五代の『秋林群鹿』、宋『文会図』、唐『牧馬図』など夢のような古画を間近に見ることができ、元・倪瓉(げいさん)の『江亭山色』、清・王翬(おうき)の『夏山烟雨図』の涼やかな趣きもよかった。明の唐寅、仇英も好き。書は王羲之の『遠宦帖』。宋の『四家法書』は蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾(べいふつ)の書を一気に眺めることができる奇跡の名品。けっこう熱心に見ている若者がいて感心した。



【203室】「心に適う-明永楽帝の磁器」
これも非常に楽しかった展示。「潔素にして瑩然,甚だ心に適う」は、永楽帝自らが好む陶磁器(殊に白磁)を賛美した言葉だという。本展は、永楽帝の時代に作られた白磁、青花磁、紅釉磁など紹介。器のかたちや文様に、チベットおよび中央アジア、西アジアとの文化交流の軌跡が見られるのが興味深い。

【201,205,207室】「土の百変化-中国歴代陶磁器展」
【204,206室】「筆墨は語る-中国歴代法書選」
【208室】「別有可観-寄贈・寄託書画展」

【301室】「鐘・鼎の銘文-漢字の源流展」
【303室】「貴貴琳瑯游牧人-故宮所蔵清代モンゴル・ウイグル・チベット文物特別展」
【304室】「若水澄華-国立故宮博物院所蔵玻璃文物特別展」
【305,307室】「古代青銅器の輝き-中国歴代銅器展」
【306,308室】「敬天格物-中国歴代玉器展」

【302室】「南北故宮 国宝薈萃」
「翠玉白菜」と「肉形石」。これも自由に写真が撮れる。3階に上がったのは夜の7時近くて、もうこの展示室にも数えるほどの人の姿しかなかった。東京国立博物館での喧噪は何だったのか。





眼も足も疲れてきたので、最後は少し急いだが、とにかく全室まわってきた。やっぱり故宮博物院は1年に1回くらいは来てみるものだなあ。そして、ゆっくり落ち着いて見るなら夜間開館がねらい目であることがよく分かった。満足。

(12/18記)
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台湾旅行2017:阿妹茶楼でお茶

2017-12-17 23:33:57 | ■中国・台湾旅行
夏に取り残した休暇の最後の1日を利用して、週末2泊3日で台湾に行ってきた。最近は長い休暇が取れないので、これがギリギリ許される範囲のぜいたくである。

長年、行きたいと思っていた九份についに行くことができた。悪天候でさんざんだったが、詳しくはあらためて。阿里山茶は癖がなくて日本茶に近い感じがした。ゆっくり、一杯ずつ注いで飲むお茶って美味しいんだなあ。各種のお茶うけは、もちろん残らずいただいた。



足もとに火鉢(アルコールランプ?が入っている)があって、鉄瓶に適温のお湯が入っている。



坂道の途中にあり、眺望のよい阿妹茶楼は「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルになったと言われる茶楼。



今回はあまり美味しいものにめぐりあう機会のない、忙しい旅行だったが、このティータイムは至高のひとときだった。

(12/17記)
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男子フィギュアスケートの魅力/雑誌・Number「銀盤の決闘」

2017-12-14 22:55:20 | 読んだもの(書籍)
〇雑誌『Number』2017年12月21日号「銀盤の決闘(デュエル)」 文藝春秋 2017.12

 雑誌『Number』なんて、数えるほどしか買ったことがないのだが、十数年ぶりに買ってしまった。はじめはSNSに、マンガ家の江口寿史氏が描いた羽生結弦選手のイラストがいい!という評判が流れてきたので、それだけ立ち読みで確かめようと思い、書店で本誌を探した。お目当てのイラストは「Score Card」というコラム集のページに添えられていて、確かに美しかった。

 しかし、それ以上に表紙の羽生くんの写真がカッコよくて惹きつけられた。ふだんは彼の表現する「美しさ」に気をとられているのだが、表紙は猛々しいアスリートの顔をしている。やっぱりスポーツグラフィック誌ならでは捉えた方だなと思った。特集で取り上げられている男子フィギュアスケート選手は5人。羽生結弦、宇野昌磨、ネイサン・チェン。ここまでが「男子トップ3」と呼ばれている。

 そして、ハビエル・フェルナンデスと金博洋(ボーヤン・ジン)。26歳のフェルナンデスはもう若手ではなく、平昌で集大成を求められる年齢なのだな。ボーヤンへの取材記事(選手寮の自室でくつろぐオフショットあり!)を読むのは初めてで、とても興味深かった。お母さんや付彩妹コーチからも話を聞いている。2022年の冬季オリンピックは北京なのか。中国男子フィギュアの歴史に画期をつくるような選手に成長してほしい。

 読み応えがあったのは「日本男子フィギュアの歴史と羽生結弦。」と題して、都築章一郎コーチに取材した記事。佐野稔を育て、羽生結弦の才能を見出した「名伯楽」であるが、60年代末、ソ連(現ロシア)のモスクワでの大会に赴き、選手たちの技術力もさることながら、老若男女が演技を楽しみ、選手に声援を送っていることに驚く。当時、「日本では試合に来るのは関係者のみと言ってよかった」のである。そこから、いつかこんな素晴らしいスケーターを育てたい、スケートを日本に根付かせたい、という気持ちで、都築の挑戦が始まる。こういう人がいたから、今の日本のフィギュアスケートの隆盛があるのだなと思った。感謝しかない。

 「プルシェンコが語る男子フィギュア新時代」も熟読した。「フィギュアスケートは、氷上のバレエではなく、競技スポーツ」という言葉は、高い芸術性を表現し得たプルシェンコの言葉だから、よけいに重みがある。でも同時に「天候が悪い日は、傷跡の全てが痛みます」という満身創痍の告白を聞くと、技の高度化が選手の肉体を痛めつけ、怪我を多くしていることに疑問や戸惑いを感じないでもない。それでも技術の高みを目指して進む彼らに、本当に拍手を送ってよいものか。
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海を越えてきた優品/唐物(金沢文庫)

2017-12-12 23:12:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展『唐物 KARA-MONO-中世鎌倉文化を彩る海の恩恵-』(2017年年11月3日~2018年1月8日)

 鎌倉文化の基層にある大陸への憧憬を国宝、重要文化財など約100点から探る。称名寺、金沢文庫の所蔵品のほか、円覚寺、建長寺、清浄光寺(遊行寺)、神奈川県立歴史博物館、さらには京都の泉涌寺からの出陳もあって華やかだった。

 まず大きなケースには、横浜・龍華寺の『釈迦十八天像』(鎌倉時代)1幅を中央に、称名寺に伝わる青磁の花瓶・香炉、そして六角形+猫脚の花台を組み合わせた、唐物による荘厳の再現。朱漆を塗った花台と青磁の緑の対比が鮮やか。『釈迦十八天像』は、今年11月に横浜市の指定有形文化財に指定されており、ご住職が「今まで重要視されてこなかったことを残念に感じていた。指定されてうれしい」と話している記事(タウンニュース金沢区・磯子区版)を見つけた。私は2015年に一度見ているが、愛らしく美しい仏画である。

 全体に植物のような太いストライプが刻まれた、丈の低い青磁壺(元時代)は「骨壺として称名寺に伝わった」とボランティアの方が解説していたが、この形状を「酒海壺」と呼ぶという説明も付いていた。酒器を骨壺に転用したのなら、それも面白い。南宋~元時代の青磁には、香炉、花生、鉢など各種あり。清浄光寺には、めずらしい青磁人物燭台が伝わっている。両手で肩の上に燭台をかつぎ、顔は釉薬を施さない。時代が下るが、明代の堆朱や堆黒は大好き。幡裂として称名寺に伝わる布片(南宋~元時代)は、緻密な染めのものとおおらかな染めのものがあって面白かった。

 称名寺の『十王図』(元時代)は5幅を展示。「都市大王」の画面に描かれた虎と豹(雌虎)がちょっとかわいい。十王の背後衝立の山水図が見どころのひとつ。神奈川歴博の所蔵する『飯島・和賀江島絵図』は江戸時代のもの(展示は複製)だが、江戸時代にも和賀江島が港として使われていたことが分かる。海岸には民家の屋根らしいものが密集している。

 仏像は多くなかったが、横須賀・清雲寺の観音菩薩坐像(滝見観音、南宋時代)が来ていらした。大きく足を開いた「遊戯坐(ゆげざ)」のポーズ。仏様には失礼だが、ちょっとヤクザで色っぽい。特に横顔がいい。頬はふくよかなのに鼻筋がとおり、目元が涼しく切れ長で、口角があがって不敵に微笑んで見える。私の考える、東洋系の美男の相である。頭部が平坦で、小さな髷が飛び出ているだけなのは少しアンバランスだが、はじめから大きな宝冠がつくことを想定していたのだろう。この観音像は、泉涌寺の俊芿(しゅんじょう)が携えてきたという伝説があるそうだ。確かに泉涌寺の楊貴妃観音のおもかげに少し通じるところがある(同じ宋風ということだが)。そこで泉涌寺から、月蓋長者像や韋駄天像、かつて楊貴妃観音が奉安されていた観音閣の扁額の残欠(近年発見)などが出陳されていた。

 建長寺の仏画『白衣観音像』(元時代)も遊戯坐の一例。ただし、こちらは細身で腕も細く、それに比べて手先や足先が大きいので、アニメ体形に思える。高麗仏画の水月観音と共通するポーズだが、これは全く高麗らしくなく、すごく中国っぽい(個人の感想)。円覚寺の『五百羅漢図』からは、元時代の原品と、室町時代の補作が並んで出ていた。また、個人蔵の元時代絵画『白衣観音像』『観音菩薩像』(劣化が激しい)が出ていたのには、びっくりした。誰が持っているんだ、こんなもの。

 また、最後に明代の色鮮やかな大判の仏画『普陀山観音像』と『菩薩聖衆図』があった。どちらも明・万暦年間の作で、称名寺と金沢文庫の復興に尽力した実業家・大橋新太郎が寄進したものだという。観音の聖地・普陀山(舟山群島)は、明代の初め、倭寇や海賊の横行によって入島が禁じられ、衰退した。その後、万暦帝が諸寺の伽藍を復興し、再び人々が参詣するようになったという。私は普陀山に行ったことがあるのだが、この話、初めて聞くような気がして興味深かった。ありがとう、万暦帝。

 絵画や工芸が面白くて、文書にあまり目がいかなかったが、三井記念文庫の『白氏文集』2種(金沢文庫旧蔵本)や円覚寺の『仏日庵公物目録』も出ている。あと、称名寺聖教の中に、寧波の広利寺や灯心寺で用いられた舎利の礼賛文が書き留められて伝わっているというのが興味深かった。
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今は隠された信仰/神も仏も大好きな日本人(島田裕巳)

2017-12-11 21:54:19 | 読んだもの(書籍)
〇島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)筑摩書房 2011.12

 日本人は自分たちを「無宗教」と考えている。しかし、長い歴史を経た宗教施設がこれほど生き残り、現在も機能している国は少ない。にもかかわらず、日本人が自分を無宗教と考える一因は、近代のはじめ、近代以前の日本人の宗教のありかたが壊されてしまったことによる。具体的にそのありかたとは、神道と仏教が深く結びついた「神仏習合」である。

 本書は、仏像、神像、参詣曼荼羅、縁起絵など、さまざまな美術品を例にあげて論を進めていく。仏教美術好きの私には親しみやすくて、とても面白かった。はじめに登場するのは、興福寺の阿修羅像で、2009年の『国宝阿修羅展』の大ブームをマクラに、明治期に興福寺は事実上の廃寺となり、阿修羅像は奈良博(帝室博物館)に預けっぱなしだったことを紹介する(和辻哲郎は古寺巡礼の旅で訪ねているが阿修羅像に関心を示していない)。興福寺衰退の理由は、1867年の神仏分離政策(神仏判然令)に始まり、神社や寺院が持っていた土地は境内地を除いて没収されることになり(神社には十分な補償あり)、経済的基盤を失ったことによる。天理の内山永久寺もこのとき消滅した。

 そんな中、阿修羅像は今日に至るまで興福寺にとって重要な稼ぎ手である。奈良博に寄託されていた当時は、その出品料で寺が維持されていたという。せちがらい話だが、優れた仏像の存在によって、寺が苦境を乗り越えることができたと考えれば、仏像の施主も仏師も本望というものではないか。

 興福寺が廃仏毀釈の影響をもろに受けることになったのは、興福寺と春日神社が一体の関係にあり、両者を分けることが難しかったためではないか、と著者は考える。そこで、浅草寺と浅草神社、多度神宮寺、園城寺と新羅明神、八幡神など、さまざまな神仏習合の例を紹介する。ところで日本の神仏習合は、シンクレティズム(諸教混淆)とは違い、神道と仏教がそれぞれ独立性を保ちながら融合していた。日本人は信仰対象にのめりこまず(原理主義的にならず)、一定の距離をおいて接してきた。そうした宗教心のありかたが、豊かで洗練された宗教美術を生んだと著者は考える。この指摘はとても面白い。

 より具体的に日本の宗教史を見ていくと、密教の力が圧倒的に大きかったことが分かる。飛鳥時代に伝わった仏教は、国家鎮護には役立っても、まだ個人を救済するものではなかった。密教の導入によって、はじめて仏教は個人を救済する力(現世利益を含め)を持ち、同時に壮大な宇宙観が取り入れられた。

 さて神道である。ここでは古い参詣曼荼羅などから、伊勢神宮や大神神社に神仏習合(特に密教)の痕跡があることを明らかにする。伊勢神宮の式年遷宮が、15世紀から16世紀にかけて、123年も中断していたことは初めて知った。なんと16世紀半ばには、少なくとも内宮の正殿は消滅していた。再建後、どんな社殿がつくられたか(白木?朱塗り?)もよく分かっていない。しかしながら現在では、伊勢神宮や大神神社について、過去の神仏習合や密教の影響を語ることは難しい。「神社の側からは触れてほしくない事柄」なのだ。その結果、2009年の『伊勢神宮と神々の美術』展でも「どこか説明を避けているという印象」があったという。伊勢神宮はまだしも、大神神社の神仏習合については、全く聞いたことがないし、考えたことがなかったなあ。

 一方、春日大社と興福寺は、わりと良好な関係なのではないか。本書は、春日宮曼荼羅(本地仏と垂迹神の関係を描く)の解説にかなり紙数を割いており、あとがきには、著者が本書の校正中に見ることができたという根津美術館の『春日の風景』展の記述がある。宮曼荼羅を前にして「深い感動」を覚えた著者だが、「国宝に指定されたようなものがないせいか(略)訪れる人の数は決して多くなかった」と残念がる。「事前に十分な知識を得ていれば、もっと見方も変わってくるであろうが」「展示のしかたがもう一つ親切ではなかった」と注文が厳しい。しかし、私は確実にあの展覧会を通して、宮曼荼羅の魅力、本地垂迹という信仰の面白さを感じたひとりであることを述べておく。
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クリスマスリース2017

2017-12-11 00:41:05 | なごみ写真帖
恒例、今年のクリスマスリース。いつもの花屋さんだが、あまりクリスマスシーズンらしいものがなくて、秋色っぽい感じになってしまった。



そして、先々月くらいからマンションの外壁工事が始まっていて、各戸の扉にも「ペンキ塗り立て」の貼り紙がされたり、廊下を職人さんが行き来しているので、リースを飾るのを躊躇していたのだが、今日から飾ってみた。

いよいよ、年末気分。
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今日的な課題/「1968年」無数の問いの噴出の時代(国立歴史民俗博物館)

2017-12-09 23:53:04 | 読んだもの(書籍)
国立歴史民俗博物館 企画展示『「1968年」無数の問いの噴出の時代』(2017年10月11日~12月10日)

 1968年、私は小学生だった。東大安田講堂の攻防は、白黒テレビで見ていたはずである。しかし、その意味が分かるようになったのは、ずっと後のことだ。30代の頃、勤務先の図書館で「1968年」というタイトルの洋書を見て、何だろう?と思って調べたのがきっかけで、この年、日本だけでなく世界各国で学生運動や社会運動が多発していたことを初めて知った。それから、さらに10年以上かけて、本を読んだり、人の話を聞いたりするうちに、当時の運動に対して、はじめは強い忌避感を抱いていたものが、少しずつ変わってきた。いま、社会運動なんて大嫌いと思っている人に言っておくが、人の好悪はけっこう変わるものである。

 本展は、1960年代後半に日本で起こった市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てる。第1展示室(第1部)は市民運動・住民運動で「ベトナム反戦とべ平連運動」「三里塚闘争」「熊本水俣病闘争」「横浜新貨物線反対運動」から成る。ベトナム反戦に始まり、独自の展開を見せた「神戸の街から」には、特別なセクションが設けられている。展示資料は当時のビラ、ポスター、文書、写真など。ヘルメットやはちまき、腕章などの実物資料や、動画も少し流れていた。ガリ版刷りの資料も多く、ガリ版印刷機(個人蔵)が一緒に展示されていたのが懐かしかった。こんな展示資料をどこから集めてきたのだろうと思ったが、市立図書館や大学文書館のほか、大原社研、埼玉大学市橋秀夫研究室、立教大学共生社会研究センターが目立っていた。

 べ平連の街頭カンパに立つ永六輔の写真があったり、ベトナム情勢を憂慮する数学者会議のよびかけ人に森毅の名前があったりするので、細かい文字をすみずみまで読み込んでしまう。世界の子どもに平和を、と訴えるいわさきちひろのイラストは、母の部屋で見た記憶があって懐かしかった。そうした有名人とは別に、真摯に運動にかかわり続けた市井の人々の姿を伝える資料もあった。知らなかったこともずいぶんあった。たとえば、新東京国際空港の建設後補地は、反対運動によって二転三転したあげく、拙速な決定がなされたこと。九州大学構内に米軍機が墜落した事件があったこと(ひでえ)。

 非常に重たい衝撃を受けたのは、熊本水俣病闘争にかかわる資料群である。この事件を日本語と英語の字幕で説明した短編フィルムが流れていて「なぜ水俣病が起きたか」「日本国民が大量のプラスチック製品を必要としたから」「なぜチッソはつぶれないのか」「(端的にいえば)国が守っているから」という説明をぼんやり見ながら、今日の原発問題を思い出さずにいられなかった。

 またチッソへの抗議を続ける患者たちに対しては、多数の攻撃ビラが撒かれた。その一例は、わら半紙に淡々と活字が並び、「水俣に会社があるから人口わずか三万たらずの水俣に特急がとまり、観光客だって来るのではないですか。会社行きさんが、会社から高い給料をもらい、水俣で使ってくれるから水俣で金が流れるのではないですか」と経済的恩恵を持ち出して反省を促し、「まさか水俣の住民が、さわぎを大きくする為によそ者をつれて来ているのではないでしょね」とあてこする。図録の解説に「犠牲者である少数者を多数で抑圧する構造」とあったけれど、これも十分に既視感がある。たとえば、沖縄を思い起こさずにいられない。

 第2展示室(第2部)は大学における全共闘運動がテーマ。まず1960年代~70年代初めの大学と学生生活が俯瞰的に示されていている。1968年1月1日号の「少年マガジン」では「あしたのジョー」が連載を開始する。「平凡パンチ」「anan」が創刊され、「朝日ジャーナル」には赤瀬川原平が「桜画報」を描いていた。

 全共闘関係のビラ、肉筆ノート、壁からはがされた貼り紙など、多くの資料は「本館蔵」だった。確か、元・東大全共闘議長の山本義隆氏が個人コレクションを同館に寄贈したと聞いているが、それ以外にも精力的に資料を収集し、受け入れた結果のようだ(※参考:「歴博」第192号)。

 ここは文書も面白いが、写真や動画のインパクトは圧倒的で、私以外にも多くの人が足を止めて、当時の記録映像に見入っていた。デモや断交に参加する学生が、だいたい白無地のワイシャツ(白黒写真だけど)にネクタイ姿も混じっていてサラリーマンみたいだったり、Gパンあるいはスカート(丈が長い)姿でデモをする女子学生が写っていたりする。北海道大学や広島大学でも大学闘争があり、関係資料が大学文書館に残っていることは初めて知った。

 全共闘の批判に応えるかたちで、1969年春頃からいくつかの大学で自主的な改革の模索が始まった。しかし政府はそれを許さず、1969年8月に大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が制定される。展示の終盤近くに「筑波新大学のあり方について」と題した報告書(1971年)があり、この大学の構想の背景があまりにもよく分かる配置だった。

 思えば、来たる2018年はこの激動の1968年から50年目なのである。政府は「明治150年」に国民の目を向けるべく大プロジェクトを仕掛けているが、ちょっと違うのではないか。来年は「1968年」の挫折と遺産を考える年にしたい。この展覧会の企画者(プロジェクト代表)である荒川章二さんの本をまず読んでみたい。あと、商業主義の博物館には絶対にできない、こういう地味な資料の収集と展示を実現した国立歴史民俗博物館を心から称えたいと思う。
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明清絵画の名品を一気に見る/典雅と奇想(泉屋博古館分館) 

2017-12-07 21:14:17 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館分館 特別展『典雅と奇想-明末清初の中国名画展』(2017年11月3日~12月10日)

 京都の泉屋博古館には何度も行っている。特に中国絵画コレクションは大好きだ。私が明清絵画の魅力に目覚めたのは、泉屋博古館のおかげと言っても過言ではない、東京・六本木の分館で中国名画展があると聞いて、ああ、あのコレクションがくるのだな、くらいに思っていた。ところが、行ってみたら、東博、京博、大阪市立美術館などの名品が出陳されており、初めて見る個人蔵作品も多くてびっくりした。「特別展」の看板は伊達じゃない。

 そのことに気づいたのは、冒頭の徐渭筆『花卉雑画巻』である。展示箇所は、厚く茂った葉の間に垂れ下がる葡萄の房を、湿潤な水墨で瀟洒に描く。不思議なのは、この作者、この題名の画巻を泉屋博古館で見ているはずなのに、絵柄に全く記憶がなかった。見ると東京国立博物館所蔵とある。そして、徐渭筆『花卉雑画巻』がもう1件あって、こちらは泉屋博古館の所蔵だった。実は、日本には2件の徐渭の画巻が伝来しているのだそうだ。東博の作品は、2008~2009年頃に「中国書画精華」で展示されたようだが、覚えていない。見ていないかもしれない…。

 そしていわゆる「明末奇想家」の作品が次々に登場する。董其昌『山水(書画合壁)図冊』(東博)、趙左『竹院逢僧図』(大阪市美)など、予想していなかった作品に出会って驚く。抽象画のような奇石を描いた米万鐘『柱石図』(根津美術館)もあまり見たことがない。米万鐘『寒林訪客図』(橋本コレクション)も、自然の風景にはとても見えない異様な山水。でも淡々と道を行く小さな人物が描かれている。呉彬の『渓山絶塵図』(橋本コレクション)も大好きな作品。あやしい生命力を感じる、SF的な造形の山水で、やっぱり小さな四阿に人の姿が描かれているのが面白い。張瑞図の『山水書画巻』は金箋に墨色が美しい。峻険な岩山に家や橋が添えられているが、人の姿は見えない。

 次に「都市と地方」と題し、浙派(職業画人)と呉派(文人)の対比を念頭におきながら、蘇州を拠点とした呉派を中心に見ていく。邵弥『山水図』や徐枋『倣倪瓉山水図』の、病的に近い繊細さ(称賛)は、いかにも泉屋博古館のコレクションらしい(住友春翠らしい)感じがする。当時の生活の活気や旅の情緒を感じさせるのは、張宏の『越中名勝図冊』(大和文華館)。どちらも好き。「遺民と弐臣」は、いよいよ明の滅亡後、混乱の時代を生きた文人たちの作品だが、「遺民」や「弐臣」という立場と造形の嗜好には明確な関わりが認められないというのは、まあ当たり前の結論だと思う。展示作品は、ほぼ全て墨画で、人の姿のない、純粋な山水画(人間の痕跡は四阿や石塔くらい)が多い。龔賢の山水はいいなあ~。楊文驄『秋林遠岫図』もよい。

 以上が第1室。エントランスホールに戻ると、漸江の画巻2件『竹岸蘆浦図巻』と『江山無尽図巻』が全面展示で出ていた。うれしい~。前者は竹林や水辺の蘆の繊細な描写、後者はかすかな淡彩が見どころ。ここから第2室にかけてが「明末四和尚」(漸江、石渓、八大山人、石濤)、最後に「清初の正統派、四王呉惲」で結ぶ。石濤は、泉屋博古館の名品『黄山図巻』『黄山八勝図冊』『廬山観瀑図』に加えて、京博所蔵の『黄山図冊』をたぶん初めて見た。かなり画風が違っていて面白かった。

 八大山人は『書画合壁巻』(山水と二羽の鳥)に加えて『安晩帖』。えええ、会期中に画面替えで20図(題字を入れると22面)全部を見せる展示だったのか! 知っていれば、毎週末に通ったのに! この日は「12.冬瓜鼠図」が開いていた。「2.瓶花図」「4.山水図」「6.魚図」「7.叭々鳥図」「10.蓮翡翠図」に加え、6図を見たことになる。「冬瓜鼠図」は、まだらに墨を置いたデコボコの冬瓜を斜めに描き、ヘタのあたりに小さなネズミが張り付いている(どう考えても冬瓜がデカすぎる)。横向きに描かれたネズミは、耳が大きく、頭が黒い。黒いベレー帽をかぶっているようにも見える。シッポはピンと横に張り出している。展示室の壁には、題字も入れた全画面が。ゆっくり順番に投影されていた。ありがとうございます。ほんとにありがとうございます!

 関連図録『典雅と奇想』は東京美術より書籍として発売中。写真もきれいで読み応えがあって大変よろしいが、掲載番号と会場での展示番号が一部異なるので、注意が必要である。静嘉堂文庫美術館 『あこがれの明清絵画』(207年10月28日~12月17日)もあわせて楽しみたいが、おすすめはこちら。もう1回、行ってみるかも。

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ひとり鍋の楽しみ/〆まで楽しむおつまみ小鍋(高橋雅子)

2017-12-06 23:56:36 | 読んだもの(書籍)
〇高橋雅子『〆まで楽しむおつまみ小鍋』 池田書店 2017.10

 寒くなると、鍋が恋しくなってくる。大きな書店で、さまざまな「鍋本」が積まれている中から、ふと目について拾い上げた。なんといっても第1章の「2つ具材のカンタン小鍋」がよかった。豚肉とほうれん草、牛肉とクレソン、鶏とかぼちゃなど、具材が2つあれば鍋になる、というのが、とても新鮮に感じられた。

 もう少し具材の多い「にぎやか小鍋」もあるけど、多いといっても3品から4品である。牛肉+まいたけ+エリンギ+万能ねぎのすきやきとか、ソーセージ+じがいも+ブロッコリーのポトフとか、なるほど、鍋ってこれでいいんだ、と感心した。具材の種類の多いレシピを見ては、作るのをあきらめてしまう私には、たいへんありがたい本である。似たような鍋本がいくつか並んでいたのだが、結局、本書がいちばんシンプルで私の好みに合った。

 切って並べた具材の小さな写真と、鍋で煮込んだ状態の大きな写真があり、いちおう「作り方」という文章が添えてあるが、だいたい1、2か1、2、3の工程で終わっている。「鍋あと」のおすすめが小さな写真が添えられているのも楽しい。ラーメンやおじやだけでなくて、鍋あとに「焼き餅」とか「バゲット」「ペンネ」という選択肢もあるのだな。

 鍋ができる前にまず一杯、あるいは鍋の箸休めになる「こつまみ」も紹介されているが、これも手間をかけないシンプルなものばかり。「ふたをして煮るだけ小鍋」もいいなあ。最後はちょっと上級編の「アジアの小鍋」。中国の定番朝食メニューだという「鹹豆漿(シェントウジャン)」や「モンゴル薬膳鍋」は試してみたいけど、正しい味が再現できるか分からないので、ちょっと躊躇する。

 本書で使われている鍋は、6~7号(1~2人前)。私はこのサイズの小鍋を持っていないので、この冬はぜひ欲しくなった。ひとり鍋は寂しいと感じる向きもあるだろうが、確か以前読んだ本によれば、江戸時代は一人一人、個別の小鍋を食べるのが普通で、明治以降、大勢で大鍋をつつくスタイルが普及したとのこと。この冬は江戸の情緒をしのんで、小鍋を楽しもう。
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忘却と再発見/日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか(池内敏)

2017-12-04 23:58:27 | 読んだもの(書籍)
〇池内敏『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』(叢書・東アジアの近現代史 第3巻) 講談社 2017.10

 江戸時代の日朝関係史を中心に16世紀末から20世紀初頭にかけての時期を対象として、日本人の朝鮮観がどのように現れ、推移してきたかを叙述する。おおむね時代順ではあるけれど、漂流民、朝鮮通信使、竹島問題、韓国皇太子の鳥取訪問など、多様なテーマがオムニバス式に積み上げられている。通して読むと「日本人の朝鮮観」がぼんやり浮かび上がってくるのだが、それは、結論を先に言ってしまうと、善か悪かの二分法で処理できるものではなく、固定的なものでもなく、むしろ忘却と再発見の繰り返しであることが感得できる。

 はじめに徳川将軍家の外交姿勢について。将軍は返書に「日本国源某」を用いたが、「日本国王」と記されていないことが朝鮮側で問題になり、国使たちが流罪の憂き目を見た。こうした摩擦を避けるため、日本側では「大君」号を創出した。「朝鮮より上位に立つ意識を表明するため」ではない、と著者がわざわざ断っているところを見ると、そういう解釈をする人もいるのだな。

 また近世日本人が(武士以外も)「武」「武威」を日本の民族的特徴と自認していたという指摘も面白い。蒙古襲来において培われた「日本は神国」という意識は、五山僧を媒介に織豊期の武家政権に流れ込み、「武威」の重視と合体する。勃興する近世都市民衆には、「神功皇后伝承」が広範に浸透した。祇園祭の船鉾の例が引いてあって、なるほどと思った。それから安価な代用品の鼈甲や珊瑚珠に「朝鮮」を冠すると、珍しがって売れたという話。屈託がないといえばそうも言えるが、「朝鮮」=まがいもの意識の発端は、意外とこんなところにあるのではないか。

 「竹島(鬱陵島)」について、本書には二篇の文章が収録されており、同じ著者の『竹島』をおさらいする気持ちで読んだ。著者の整理によれば、やっぱり私は「竹島は昔から日本領」と主張するのは難しいと思う。しかし、日本領でないというのは、朝鮮領であるという意味ではない。歴史が教えるように、資源の共同利用と共存を目指すことはできないものだろうか。あと、著者が厳しく学問的責任を問うている、外務省職員・川上健三の『竹島の歴史地理学的研究』は、逆に批判的に読んでみたくなった。

 「漂流と送還」をめぐる日本人と朝鮮人の直接的な交流は、本書で最も面白く感じたところである。日本に漂着した済州島人は、出身地を詐称する傾向があった。この理由は、済州島の周囲は航海の難所で海難事故が多発した。→他国人は「済州島人に殺された」と誤解しやすかった。→そのため、済州島人は他国人に殺されることを恐れ、出身地を偽った、と説明されており、そんなこともあるだろうと、妙に納得できた。ただし、1880年代には詐称例が消えていく。同時期に、もともと壬申倭乱の記憶に冷淡だった済州島人(戦地にならなかった)が、乱の記憶を自らの歴史に重ね合わせていく傾向が見られ、朝鮮人としての自我意識の獲得が見られるという。

 朝鮮半島に漂着した薩摩藩士・安田義方の話も面白かった。朝鮮側の役人たちとの交流が、彼の日記をもとに紹介されている。特に県監の尹永圭とは、絵画や古典の教養を共有し、うちとけた会話(筆談)を交わす仲となっている。一方、物騒な事件もあった。宝暦10年の朝鮮通信使一行が、帰路、大坂に宿泊していたとき、中級官人の崔天宗なる者が、日本人・鈴木伝蔵に殺害される事件が起きている。これは知らなかった。「朝鮮通信使」といえば、友好の一面が強調されるが、こんな血なまぐさい事件もあったのだな。

 そして、この事件を題材とした「唐人殺(難波夢)」という小説が刊行されている。近世文学・演劇空間における異人の表象については、もっと詳しく知りたい。「国姓爺合戦」は知っていたけど、「天竺徳兵衛」も「朝鮮人の子」であり、そのことが「反逆者としての正当性」と担保していたという(ちょっと興味をもって調べたら、天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至った実在の商人だと分かってびっくりした)。

 近代以降については、「鮮人」ということばの由来を探索する。著者は、このことばが蔑称として機能したことを否定するものではないが、全ての用例を機械的に蔑称として扱うことには懸念を表明する。同じ態度は、朝鮮総督府の御用言論人と称される細井肇の評価にも共通する。差別は軽視すべきではない。しかし、差別を批判することに性急になりすぎるのもいかがなものか。そのような教訓として、私は読み取った。そして、忘却と再発見の繰り返しの中で、歴史家は虚偽を排し、真実を保持すべきだが、市井の人々には「忘れる」ことも大事かもしれない、と思った。
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