〇国立歴史民俗博物館 企画展示『「1968年」無数の問いの噴出の時代』(2017年10月11日~12月10日)
1968年、私は小学生だった。東大安田講堂の攻防は、白黒テレビで見ていたはずである。しかし、その意味が分かるようになったのは、ずっと後のことだ。30代の頃、勤務先の図書館で「1968年」というタイトルの洋書を見て、何だろう?と思って調べたのがきっかけで、この年、日本だけでなく世界各国で学生運動や社会運動が多発していたことを初めて知った。それから、さらに10年以上かけて、本を読んだり、人の話を聞いたりするうちに、当時の運動に対して、はじめは強い忌避感を抱いていたものが、少しずつ変わってきた。いま、社会運動なんて大嫌いと思っている人に言っておくが、人の好悪はけっこう変わるものである。
本展は、1960年代後半に日本で起こった市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てる。第1展示室(第1部)は市民運動・住民運動で「ベトナム反戦とべ平連運動」「三里塚闘争」「熊本水俣病闘争」「横浜新貨物線反対運動」から成る。ベトナム反戦に始まり、独自の展開を見せた「神戸の街から」には、特別なセクションが設けられている。展示資料は当時のビラ、ポスター、文書、写真など。ヘルメットやはちまき、腕章などの実物資料や、動画も少し流れていた。ガリ版刷りの資料も多く、ガリ版印刷機(個人蔵)が一緒に展示されていたのが懐かしかった。こんな展示資料をどこから集めてきたのだろうと思ったが、市立図書館や大学文書館のほか、大原社研、埼玉大学市橋秀夫研究室、立教大学共生社会研究センターが目立っていた。
べ平連の街頭カンパに立つ永六輔の写真があったり、ベトナム情勢を憂慮する数学者会議のよびかけ人に森毅の名前があったりするので、細かい文字をすみずみまで読み込んでしまう。世界の子どもに平和を、と訴えるいわさきちひろのイラストは、母の部屋で見た記憶があって懐かしかった。そうした有名人とは別に、真摯に運動にかかわり続けた市井の人々の姿を伝える資料もあった。知らなかったこともずいぶんあった。たとえば、新東京国際空港の建設後補地は、反対運動によって二転三転したあげく、拙速な決定がなされたこと。九州大学構内に米軍機が墜落した事件があったこと(ひでえ)。
非常に重たい衝撃を受けたのは、熊本水俣病闘争にかかわる資料群である。この事件を日本語と英語の字幕で説明した短編フィルムが流れていて「なぜ水俣病が起きたか」「日本国民が大量のプラスチック製品を必要としたから」「なぜチッソはつぶれないのか」「(端的にいえば)国が守っているから」という説明をぼんやり見ながら、今日の原発問題を思い出さずにいられなかった。
またチッソへの抗議を続ける患者たちに対しては、多数の攻撃ビラが撒かれた。その一例は、わら半紙に淡々と活字が並び、「水俣に会社があるから人口わずか三万たらずの水俣に特急がとまり、観光客だって来るのではないですか。会社行きさんが、会社から高い給料をもらい、水俣で使ってくれるから水俣で金が流れるのではないですか」と経済的恩恵を持ち出して反省を促し、「まさか水俣の住民が、さわぎを大きくする為によそ者をつれて来ているのではないでしょね」とあてこする。図録の解説に「犠牲者である少数者を多数で抑圧する構造」とあったけれど、これも十分に既視感がある。たとえば、沖縄を思い起こさずにいられない。
第2展示室(第2部)は大学における全共闘運動がテーマ。まず1960年代~70年代初めの大学と学生生活が俯瞰的に示されていている。1968年1月1日号の「少年マガジン」では「あしたのジョー」が連載を開始する。「平凡パンチ」「anan」が創刊され、「朝日ジャーナル」には赤瀬川原平が「桜画報」を描いていた。
全共闘関係のビラ、肉筆ノート、壁からはがされた貼り紙など、多くの資料は「本館蔵」だった。確か、元・東大全共闘議長の山本義隆氏が個人コレクションを同館に寄贈したと聞いているが、それ以外にも精力的に資料を収集し、受け入れた結果のようだ(※参考:「歴博」第192号)。
ここは文書も面白いが、写真や動画のインパクトは圧倒的で、私以外にも多くの人が足を止めて、当時の記録映像に見入っていた。デモや断交に参加する学生が、だいたい白無地のワイシャツ(白黒写真だけど)にネクタイ姿も混じっていてサラリーマンみたいだったり、Gパンあるいはスカート(丈が長い)姿でデモをする女子学生が写っていたりする。北海道大学や広島大学でも大学闘争があり、関係資料が大学文書館に残っていることは初めて知った。
全共闘の批判に応えるかたちで、1969年春頃からいくつかの大学で自主的な改革の模索が始まった。しかし政府はそれを許さず、1969年8月に大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が制定される。展示の終盤近くに「筑波新大学のあり方について」と題した報告書(1971年)があり、この大学の構想の背景があまりにもよく分かる配置だった。
思えば、来たる2018年はこの激動の1968年から50年目なのである。政府は「明治150年」に国民の目を向けるべく大プロジェクトを仕掛けているが、ちょっと違うのではないか。来年は「1968年」の挫折と遺産を考える年にしたい。この展覧会の企画者(プロジェクト代表)である荒川章二さんの本をまず読んでみたい。あと、商業主義の博物館には絶対にできない、こういう地味な資料の収集と展示を実現した国立歴史民俗博物館を心から称えたいと思う。
1968年、私は小学生だった。東大安田講堂の攻防は、白黒テレビで見ていたはずである。しかし、その意味が分かるようになったのは、ずっと後のことだ。30代の頃、勤務先の図書館で「1968年」というタイトルの洋書を見て、何だろう?と思って調べたのがきっかけで、この年、日本だけでなく世界各国で学生運動や社会運動が多発していたことを初めて知った。それから、さらに10年以上かけて、本を読んだり、人の話を聞いたりするうちに、当時の運動に対して、はじめは強い忌避感を抱いていたものが、少しずつ変わってきた。いま、社会運動なんて大嫌いと思っている人に言っておくが、人の好悪はけっこう変わるものである。
本展は、1960年代後半に日本で起こった市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てる。第1展示室(第1部)は市民運動・住民運動で「ベトナム反戦とべ平連運動」「三里塚闘争」「熊本水俣病闘争」「横浜新貨物線反対運動」から成る。ベトナム反戦に始まり、独自の展開を見せた「神戸の街から」には、特別なセクションが設けられている。展示資料は当時のビラ、ポスター、文書、写真など。ヘルメットやはちまき、腕章などの実物資料や、動画も少し流れていた。ガリ版刷りの資料も多く、ガリ版印刷機(個人蔵)が一緒に展示されていたのが懐かしかった。こんな展示資料をどこから集めてきたのだろうと思ったが、市立図書館や大学文書館のほか、大原社研、埼玉大学市橋秀夫研究室、立教大学共生社会研究センターが目立っていた。
べ平連の街頭カンパに立つ永六輔の写真があったり、ベトナム情勢を憂慮する数学者会議のよびかけ人に森毅の名前があったりするので、細かい文字をすみずみまで読み込んでしまう。世界の子どもに平和を、と訴えるいわさきちひろのイラストは、母の部屋で見た記憶があって懐かしかった。そうした有名人とは別に、真摯に運動にかかわり続けた市井の人々の姿を伝える資料もあった。知らなかったこともずいぶんあった。たとえば、新東京国際空港の建設後補地は、反対運動によって二転三転したあげく、拙速な決定がなされたこと。九州大学構内に米軍機が墜落した事件があったこと(ひでえ)。
非常に重たい衝撃を受けたのは、熊本水俣病闘争にかかわる資料群である。この事件を日本語と英語の字幕で説明した短編フィルムが流れていて「なぜ水俣病が起きたか」「日本国民が大量のプラスチック製品を必要としたから」「なぜチッソはつぶれないのか」「(端的にいえば)国が守っているから」という説明をぼんやり見ながら、今日の原発問題を思い出さずにいられなかった。
またチッソへの抗議を続ける患者たちに対しては、多数の攻撃ビラが撒かれた。その一例は、わら半紙に淡々と活字が並び、「水俣に会社があるから人口わずか三万たらずの水俣に特急がとまり、観光客だって来るのではないですか。会社行きさんが、会社から高い給料をもらい、水俣で使ってくれるから水俣で金が流れるのではないですか」と経済的恩恵を持ち出して反省を促し、「まさか水俣の住民が、さわぎを大きくする為によそ者をつれて来ているのではないでしょね」とあてこする。図録の解説に「犠牲者である少数者を多数で抑圧する構造」とあったけれど、これも十分に既視感がある。たとえば、沖縄を思い起こさずにいられない。
第2展示室(第2部)は大学における全共闘運動がテーマ。まず1960年代~70年代初めの大学と学生生活が俯瞰的に示されていている。1968年1月1日号の「少年マガジン」では「あしたのジョー」が連載を開始する。「平凡パンチ」「anan」が創刊され、「朝日ジャーナル」には赤瀬川原平が「桜画報」を描いていた。
全共闘関係のビラ、肉筆ノート、壁からはがされた貼り紙など、多くの資料は「本館蔵」だった。確か、元・東大全共闘議長の山本義隆氏が個人コレクションを同館に寄贈したと聞いているが、それ以外にも精力的に資料を収集し、受け入れた結果のようだ(※参考:「歴博」第192号)。
ここは文書も面白いが、写真や動画のインパクトは圧倒的で、私以外にも多くの人が足を止めて、当時の記録映像に見入っていた。デモや断交に参加する学生が、だいたい白無地のワイシャツ(白黒写真だけど)にネクタイ姿も混じっていてサラリーマンみたいだったり、Gパンあるいはスカート(丈が長い)姿でデモをする女子学生が写っていたりする。北海道大学や広島大学でも大学闘争があり、関係資料が大学文書館に残っていることは初めて知った。
全共闘の批判に応えるかたちで、1969年春頃からいくつかの大学で自主的な改革の模索が始まった。しかし政府はそれを許さず、1969年8月に大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が制定される。展示の終盤近くに「筑波新大学のあり方について」と題した報告書(1971年)があり、この大学の構想の背景があまりにもよく分かる配置だった。
思えば、来たる2018年はこの激動の1968年から50年目なのである。政府は「明治150年」に国民の目を向けるべく大プロジェクトを仕掛けているが、ちょっと違うのではないか。来年は「1968年」の挫折と遺産を考える年にしたい。この展覧会の企画者(プロジェクト代表)である荒川章二さんの本をまず読んでみたい。あと、商業主義の博物館には絶対にできない、こういう地味な資料の収集と展示を実現した国立歴史民俗博物館を心から称えたいと思う。