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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

白描と古経と古筆/時代の美 奈良・平安編(五島美術館)

2012-11-05 22:31:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 新装開館記念名品展『時代の美-五島美術館・大東急記念文庫の精華』第1部 奈良・平安編(2012年10月20日~11月18日)

 2010年冬から改修工事のため休館していた五島美術館が新装開館した。久しぶりに下りた上野毛駅がきれいになっていたので驚いたが、美術館の外観は、さほど変わっていなくて、ホッとした。ただし中に入ると、受付が右から左へ移動し、トイレやミュージアムショップが新しくなり、さらに第2展示室ができて、展示スペースが広くなった。善哉。

 本展は新装開館を記念し、五島美術館と大東急記念文庫が所蔵する日本と東洋の名品を4部に分けて展示する第1部。前後期で展示替があり、『源氏物語絵巻』の出る後期(11/6~)のほうが混むだろうと思ったので、敢えて前期の最後の週末に行ってきた。

 絵画では、見覚えのある絵因果経の断簡や地獄草紙の断簡。これ、どちらも益田鈍翁の旧蔵で、近代に切断しちゃったんだな。茶人って勝手なことをするなあ、と慨嘆する。白描の仏画が多く出ていて、関西で見てきた『清雅なる仏画』(大和文華館)の続きを見ているような気持になった。特に面白かったのは『白描四天王図像』(鎌倉時代)で、片足を踏み下ろして邪鬼の上に腰かけるようなポーズ、吹き流しつきの大きな旗を持って従う侍者など、どこか胡人(騎馬民族)っぽい。『白描応現観音図』は刊記によって、原本が呉越国王銭弘淑によって開版された版画だったと分かるもの。なるほどねえ。複製や頒布のために版画や白描という手法が用いられた当時、彩色画がどれだけ貴重で特異なものだったかを物語る。

 『観普賢経冊子』は、雲母刷りの唐紙に雪の降る夜の貴族の邸宅の情景(囲炉裏?を囲んでいる?)を描き、その上に経文を写す。別頁に古今集の和歌が散らし書きされていることから、「歌絵」の料紙を写経用紙に転用したのではないかと解説されていた。どんな事情があったのか、いろいろ想像を刺激される。

 あとは、写経・写本・古筆。『紺紙金字木槵経(もくげんきょう)』30巻は、鳥羽院が発願し、後白河院がその遺志を継いで完成させた神護寺経の一部。後白河院、そんな殊勝なことをしていたのか。うち1巻のみ開いて展示されているが、3つの木箱に10巻ずつ収めた状態、軸や表紙が息をのむほど美しい。あの時代(院政期)の美意識って、すごいなあ。

 高野切・古今和歌集の第1種・第2種が並べてかけてあったところは圧巻。やっぱり、こうして並べると、第1種の、ゆったりした余白、バランスのよさ、品格の高さに一日の長あり。「古今集の歌はこう読め」と呼びかけられているような気持ちになる。第1種の若草色の表具、第2種の黄色(くちなし色?)の表具もよい。古筆は、伝承筆者にこだわらず、直感で自分の好きな書跡を探していく。伊予切(第1種)とか好きだな。石山切・伊勢集も、意外と読みやすくて好き。唐紙が多いと思ったのは、五島慶太コレクションの傾向なのだろうか。

 美しい仮名と漢字をたくさん見たあとで、見落としていた展示ケースに戻ってきたら、なんだか素人くさい(人間くさい)写経があって、え?と思ったら、平忠盛筆の阿弥陀経だった。巻末の署名が界(枠線)をはみ出しているのが「微笑ましい」と解説図録に書かれてしまっている。

 新設の第2展示室に移動。探していた『因明論疏』はこっちの部屋にあった。”悪左府”藤原頼長の自筆識語を持つ伝本である。巻上・中を展示(巻下は欠)。巻上は、興福寺僧・蔵俊の識語がまずあり、次は頼長の識語らしいのだが、署名部分が欠損していて分かりにくい。ふと隣りを見たら、巻中の識語には、ちゃんと「左大臣(花押)」の署名があった。それにしてもふてぶてしい筆跡だよなあ、と眺める。2009年の展示では「宋版を思わせる痩肥のない無機質な印象」と褒められていたが、今回の解説は、字のことには触れず、難解な原書の再読に励む「好学ぶり」を称えていた。展示は前期(~11/4のみ)。なお、会場で配っている出品目録には「重要文化財 因明論疏 巻上・下」だけで、頼長の名前がない。

 展示図録は64頁で1,000円。薄くて軽くて安価、こういうのがありがたい。まあ4回来たら、それなりの出費になってしまうのだけど。
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内なる他者/アメリカの越え方(吉見俊哉)

2012-11-05 00:45:13 | 読んだもの(書籍)
○吉見俊哉『アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』(現代社会学ライブラリー5) 弘文堂 2012.10

 副題の三人は、もちろん鶴見和子(姉、1918-2006)、鶴見俊輔(弟、1922-)、鶴見良行(従弟、1926-1994)のことだ。和子・俊輔の祖父は、明治国家の中枢にいた後藤新平。その娘で、サムライ的なエートスを受け継いだ母と、新渡戸稲造の愛弟子で、家庭人としては快活なアメリカン・パパだった鶴見祐輔のもとに姉弟は産まれた。自己形成期をアメリカで過ごした三人は、戦争を契機に、内なる「アメリカ」を越えるために、それぞれ苦悩に満ちた長い軌跡を辿ることになる。

 まず、和子について、印象的な挿話が語られる。アメリカ留学時代、大学院のゼミナールで天皇制についての論文を書いたあと、日本の官憲に追い回される夢を見る。もう一つは、戦後、軽井沢の山小屋で原稿を執筆していたとき、暗闇の中から大きな男=米兵が現れる恐怖に取りつかれる。そして、和子は、天皇制の「日本」を恐怖すると同時に、占領の「アメリカ」を恐怖している自分に気づく。「アメリカ」は「日本」の抑圧からの解放の場ではあり得ないし、「アメリカ」の支配を払いのけるために「天皇制=ナショナリズム」を用いることはできない。そこから、和子は、パール・バック(中国育ちのアメリカ人)、生活記録運動、柳田國男などを経て、近代日本を越える契機を求め、南方熊楠にたどりつく。

 俊輔もまた、できすぎた小説のような印象的なエピソードを残している。インドネシアで従軍中、心情的には日本よりもアメリカの側に立っていた俊輔は、アメリカによる占領がはじまったとき、「自分とアメリカの戦いが始まる」と日記に書きつけた。これはもちろん、著者が丁寧に補足しているように、日本のナショナリズムの側に立って、アメリカに抵抗するという意味ではなく、アメリカの「民衆」に寄り添い、「国家」としてのアメリカと戦うという決意表明である。そして、実際、そのようになった。1950年代半ばから60年代、原水爆禁止運動、反基地運動、安保闘争、ベトナム反戦運動を俊輔は戦い続ける。

 注目すべきは、俊輔が「戦中」と「戦後」の連続性、特に東アジア(東北アジアと東南アジアの両方)において、大日本帝国の支配が戦後のアメリカン・ヘゲモニーに継承されていることに、最も早く気づいた一人であったことだ。では、連続する二つの支配を突き放して見るところは、いかにして獲得されるのか。俊輔は「ディスコミュニケーション」に着目する。その対極が、世界を一つの文明の教室のように考え、その中で順位争いをする「教室」の思想である。「教室」を忌避し、逃走していくことに、日本人の世界の見方を、多少なりとも変えていく可能性が開かれている。

 最後に、良行。1950年代、メディア論から出発した良行は、70年代以降、東南アジアを丹念に歩きまわり、日本を問い直すルポルタージュの傑作をまとめあげた。さらに80年代以降の良行は、「アメリカ」との格闘を離れ、アフロ・アメリカンやエスニック・マイノリティが生きる「もう一つのアメリカ」に触れていく。同様にアジアにおいても、「植民地としてのアジア」でも「国民国家としてのアジア」でもない、漁民、商人、海賊など多様な人々の生きる海のアジア史へと視座を転換していく。

 ちょっときれいにまとまりすぎではないか、という気もするが、面白かった。実際には、もっと三人とも、先行きの見えない状態で何年も足踏みしたり、以前の試みを全否定するような場面もあったのではないかと思うが、紙数の都合か、そのあたりはあまり詳述されていない。だが、彼ら三人ほどでないにしても、アメリカ的価値観・審美眼・生活規範などを、「日本=ナショナリズム」と分かち難いまで内面化してしまったわれわれ、戦後日本人が、内なる「アメリカ」をえぐり出し、相対化するにはどうしたらよいか、それぞれの軌跡から示唆を与えられる。

 私は、最近ようやく鶴見俊輔を読んでみた限りで(少なくとも最近の著書は嫌いではない)、和子・良行については、確か、教科書に載っていたことが悪印象で、まともに読んでみようとしたことがなかった。これから少し読んでみようと思う。
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