見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

江西・福建2012【4日目】廬山→九江

2012-08-13 23:52:48 | ■中国・台湾旅行
■廬山(錦繡谷~仙人洞~東林寺~西林寺)~九江(潯陽楼~鎖江楼宝塔~能仁寺)

 廬山観光2日目。錦繡谷は、山腹に沿った(昨日に比べれば)ゆるやかなアップダウンの遊歩道で、奇岩怪石や眺望を楽しむ。野生のサルも登場。途中の「竹林寺」という石刻は、朱元璋が周顛なる道士に出会った旧蹟だという。江西省は、朱元璋にかかわる史跡・伝承地が多い。気になって調べたら、周顛は金庸の『倚天屠龍記』にも登場していた。

 終着点の仙人洞は、八仙人のひとり、呂洞賓の修行場所といわれる洞窟。鎌倉の銭洗い弁天を思い出す。

 廬山を下り、ふもとの東林寺と西林寺に立ち寄る。下界は暑い! 東林寺は中国浄土教の開創地。「中国には浄土教の寺院は2ヶ所しかありません。ここ東林寺と山西省の懸空寺です」とガイドの朱さんが言っていたけど、本当だろうか。東林寺を建てた慧遠が、陶淵明、陸修静との会話に夢中になり、思わず門前の橋を渡ってしまったという「虎渓三笑」の舞台もここだ。さすが人文名山と呼ばれる廬山、あれもこれも「舞台はここか」と驚くことが多い。陶淵明が「菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る」と詠んだ南山も廬山のことだ。

 さらに朱さんが、東林寺の門前の霞空を見上げて「あのあたりに見えるのが香炉峰です」と教えてくれた。枕草子の「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」の香炉峰である。隣りの西林寺は尼寺。



 廬山観光を一部残したまま、九江市に移動。ここも自由行動の予定だったが、急遽、ツアーに組み入れてもらう。長江が諸川を集め水勢を強める地で、古くは江州、あるいは潯陽(じんよう)とも呼ばれた。

 長江に臨む潯陽楼は、水滸伝の宋江が酔いに任せて壁に詩を書きつけた逸話で知られる。いま楼閣の第一層には、景徳鎮で焼かれた水滸伝の英雄百八人の像が並んでいて壮観。↓黒旋風・李逵だ!



 にわかに降り出した強い雨を避けながら、鎖江楼宝塔(三層の楼閣+宝塔)を観光。続いて、博物館を兼ねる煙水亭に寄ったが、月曜で閉まっていたので、能仁寺にまわる。禅寺である。誰かいる!と思ったら、石舟に載せられた鉄仏。



 夜は、市内の中心を占める大きな湖、甘棠湖(福岡の大濠公園みたいである)のまわりを散策。軽い運動がてら、夕涼みする市民の姿が多数。

(8/23記)
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江西・福建2012【3日目】廬山

2012-08-12 23:14:36 | ■中国・台湾旅行
■廬山(三畳泉~五老峯~美廬)

 廬山といえば、中国絵画の世界では『李白観瀑図』や『廬山観瀑図』で知られる滝が有名。まず、この滝(三畳泉)を見に行く。ホテル脇から路線バス→ケーブルカーに乗り換え。高低差は少なく、高原列車のようだ。終着駅から滝壺までは、1,500段の石段を下りる。これ…下りたら、帰りは上がるんだよな、と思うと、ぞっとしたが、とにかく下りる。







 下り切ったときは、すでに膝がガクガク。京都・泉屋博古館の石濤筆『廬山観瀑図』は、私の好きな作品のひとつだが、こんな肉体的苦痛の末に描かれた作品だったのか…と思い、あらためて、作者の石濤に親近感が湧く。帰りは1,500段を再び上がりましたとも。休み休みしながら。

 山中のレストランで昼食中、強い雨が降り出す。午後も山歩きを続けるのは難しそうなので、美廬(蒋介石・宋美齢夫妻の別荘)観光を先にしようとした矢先、雨が止んだので、予定どおり、五老峯に向かう。

 五老峰は、五つの峯が連なる風景区で、旅のスケジュールを立てた友人は「眺めるだけかと思った」というが、第一峯の山裾から入り、第ニ峯の頂上まで、アップダウンのある石段を歩く。もはや見栄も外聞も構っていられないくらい、汗だくで、へろへろ。しかし、ガイドの朱小姐は、お湯を入れた大きな魔法瓶とインスタントコーヒーのセットを下げて、すたすたと山道を行く。霧の晴れ間に見えた風景は見事でした。朱元璋と陳友諒の湖上戦の舞台として知られる鄱陽湖(はようこ)も見えた。

 最後は美廬。もと蒋介石・宋美齢夫妻の別荘で、のち、毛沢東・江青夫妻も使用した。そんな由緒に従い、ベランダには、国民党・共産党・八路軍などの軍服が用意されていて、好きなコスプレで写真を撮ることができる。左下のおじさん二人が演ずる”国共合作の図”にウケる。



(8/22記)
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江西・福建2012【2日目】南昌→廬山

2012-08-11 23:35:55 | ■中国・台湾旅行
■南昌(滕王閣~江西省博物館~佑民寺~縄金塔~八大山人紀念館)~廬山

 南昌観光はフリータイムにして、自分たちで回ろうと考えていたのだが、現地ガイドの朱さんから「お手伝いしますよ」と言われて、楽なほうに転んでしまう。江西省の省都である南昌は、かつて洪都と呼ばれた、とガイドさんの説明で初めて知る。中華ドラマ『大明帝国 朱元璋』で、陳友諒の覇権争いに際し、朱元璋が藍玉に「100日間死守」を命じた、あの洪都である。

 まず、武漢の黄鶴楼、岳陽の岳陽楼と並び「江南三大名楼」と称される滕王閣(とうおうかく)へ。唐代の創建と言われるが、現在は6階建ての鉄筋建築。「楼」は重層の建物で酒店になることが多く、「閣」は高所の建造物で書物の収蔵庫になることが多かった、というのは朱さんの説明。

 江西省博物館は、省級博物館としては、やや期待外れ。「歴史文化館」は、例によって写真撮り放題だが、閉まっている展示室が多かった。「革命闘争館」の1階に、東博でいえば「国宝室」みたいな特別展示室があって、月替わりの名品を展示している。今月(2012年8月)は元代の青花松竹梅梅瓶。これは、本物は撮影不可。



 南朝梁代創建の古刹、佑民寺(とてもそうは思えない市中にある)、唐代創建の縄金塔(現在の塔は清代の再建)を見て、最後に私の希望で八大山人紀念館に連れて行ってもらう。「八大山人をご存じですか!」と朱さんに感心されたが、八大山人こと朱耷(しゅとう)は、明末清初の画家にして書家。京都・泉屋博古館の『安晩冊(安晩帖)』は、何度か紹介しているとおり、私の大好きな水墨画集である。

 彼の画風から、ひっそり営まれるこじんまりした記念館を勝手に想像していたら、近づくにつれて、とんでもないことになっていることが分かった。出身地の南昌にとって、彼は「郷土の偉人」であるらしく、市内の一角に「八大山人パーク」とでも呼ぶべき、広大な文化公園が設けられていた。



 その中にある、中国伝統建築ふうの紀念館。展示品には期待しないよう、自分の胸に言い聞かせる。案の定、八大山人の作品の写真パネルが数点ほど。



 このほかに近代的な展示館が別にあって、そこでは、本物の八大山人の作品を数点(印象的なのは鹿図)、それから、呉昌碩や斎白石の作品も少し見ることができた。旅の記念にと思い、1階の売店で『八大山人作品局部経典』動物(一)(二)というコンパクトな図版集を買っていくことにした。

 そうしたらこれには、見覚えのある『安晩帖』の図版が混じっているのだが、どこにも所蔵館の注記がない。ええ~あり得ないだろ。少なくとも日本の美術館や博物館が、所蔵館の記載なしで図版の掲載に同意するとは思えない。いいのか、江西美術出版社。ISBNまでつけて、堂々と出版しているけど。

 夕方、南昌を後にし、高山リゾートの廬山泊。いつぞやのろうそく祭りの高野山みたいな感じで、ものすごい人出で賑わっていた。

(8/21記)
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江西・福建2012【初日】羽田→上海→南昌

2012-08-10 21:35:42 | ■中国・台湾旅行
■羽田~上海~南昌

 毎年恒例の夏休み中国旅行。パッケージツアーを利用したこともあるが、この数年は、友人のひとりが企画し、日本の旅行社から見積を取って、オーダーメイドで手配している。

 出発前、手配確認書が送られてきたところで、企画担当の友人が「スルーガイドが昨年と同じ」と気づいた。へえ、そんなこともあるのか、と気にもとめていなかったが、昨年と同じ、羽田発MU538便で上海虹橋空港に到着すると「みなさん、お久しぶりです!」と出迎えられたのは、確かに見覚えのある顔と声。

 昨年の記事(※こちら)にも書いたとおり、「人はいいのだが、あまりにも頼りない仕事ぶり」の小黄(シャオホワン)は、一年経ってもあまり変化があったように見えない。

 とりあえず、専用車に乗せられて、乗り継ぎターミナルに移動。↓写真は車内に下がっていた龍のマスコット。



 南昌行きMU5565便の出発まで、まだ3時間ほどあるので「ゆっくりしてください」と言って、ターミナル内のカフェに連れていかれ、冷たい飲み物をご馳走になる。ちょっと待て。手配書では、初日の夕食が価格に組み込まれていたはずなんだけど…。

 まあ羽田-上海間の機内食で遅い昼食を食べたばかりだし、このあと上海-南昌間でも機内食が出るかもしれないので、一食くらい抜いてもいいけど…。なんとなく狐につままれた気持ちで、南昌行きの飛行機に乗り込む。出てきた機内食が↓これ。



 なんとなく先の思いやられる旅のスタートであった。南昌空港では、江西省現地ガイドの朱さん(女性)の出迎えを受ける。こちらは落ち着いたお姉さんで、やや安心。

(8/21記)
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【ただいま夏休み中】今年も中国11日間

2012-08-10 01:29:56 | なごみ写真帖
明日(というか今日)から夏休み。

昼頃、家を出て、羽田から上海に向かう予定である。初日がゆっくり出発だと、何かと助かる。



しばらくブログの更新はありません。

休みの間、ショーウィンドウとなるTOPページに、今年は久隅守景の『納涼図屏風』を飾っておくことにした。全体図はこちら

先日、『日本美術応援団、東京国立博物館を応援する』の講演会で、「三人とも同じ方向にある(いる)何かにじっと注目してるんだよね」「動物じゃないかな?」「だとしたら、あんまり怖い動物じゃないね」なんて、盛り上がっていた。

この時代、小さくても野良犬は怖いな。ネコか…親子のタヌキとか?

【8/21補記】よく数えてみたら、今年の夏休みも11日間でした。
よって、タイトルを中国10日間→中国11日間に修正。
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美しき線/吉川霊華展(東京近美)

2012-08-08 23:55:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立近代美術館 『吉川霊華展 近代にうまれた線の探究者』(2012年6月12日~7月29日)

 行ったのは3週間前になるのだが、記憶を掘り起こして、ひとことだけでも書き留めておきたい。春に関西に行ったとき、ポスターを見て、あまりに美しい描線にゾクゾクして、どこの美術館でやっている展覧会だろう、と思ったら、東京の近代美術館だった。吉川霊華(きっかわ れいか、1875-1929)という画家のことは、いつ、どんな活躍をしたか、何ひとつ知らなかった。

 解説によれば、明治8年、東京湯島の生まれ。近代の黎明期に生を受けた世代ということになるだろうか。浮世絵や狩野派の手習いを受け、有職故実の研究者であった松原佐久(まつばら すけひさ、1835-1910→このひとも知らなかった)の影響を受け、冷泉為恭(→は知っている)に私淑して、やまと絵を学んだ。

 会場には、若い頃からの膨大なスケッチ帳や習作も展示されていた。風景や身の回りの品々のほかに、多数の古画を模写しているのだが、これが、スゲー上手い。年齢と完成度を見比べて、エエエ、と唸ってしまった。やがて、ゆっくり円熟を増していくが、古画の品格を失わない程度に、近代の個性や写実性(肉体の肉体らしさ)が加わっていて、とても魅力的である。

 (まだ残っている)展覧会サイトに「この画家こそ、筆を『使えた』最後の世代の最高峰です」とあるのを読んで、再び唸った。この繊細で変幻自在の描線は、筆から生まれていたのか、と思って。

 本展の見どころに位置づけられている作品は、大正15年の『離騒』対幅。いま、図録を手元で見ているのだが、意外なほど大きい作品だったなあ…。モノクロのように見えて、実は描線自体に多くの色彩が用いられている。それから、この上唇がめくれ気味の、胴の短い龍は、大陸風というか、半島風というか、少なくとも桃山~江戸に描かれてきた和臭の龍とは異なる(実は「契丹」展で見た龍に似ていると思った)。作者は、当時の考古学の成果も学んでいたのではないかと思った。

 「個人蔵」の作品が多いことが、ひとつの特徴になっているそうだが、確かに私も、できることなら1点くらい手に入れて、部屋に飾っておきたいと思う。仏画がいいなー。
コメント (2)
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国難の「今」を照らし合わせる/日本近代史(坂野潤治)

2012-08-07 22:37:57 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書) 筑摩書房 2012.3

 1857(安政4)年から1937(昭和12)年まで、80年間の歴史を通観したもの。分業化の進んだ現在の学問状況で、この80年史をひとりで書き上げるのは、すごい力技だと思う。さらに、それを(450頁という異例のボリュームとは言え)新書で出してしまうというのも太っ腹な話だ。

 著者が用いる「六つの時代区分」と、それぞれの特徴を簡単にメモしておく。

・改革の時代:1857(安政4)-1863(文久3)

対外政策における「攘夷/開国」、国内政治体制の「尊王/佐幕」という二重の基本的対立の落としどころを求めて悪戦苦闘した時代。西郷隆盛は「攘夷/開国」の対立を棚上げし、「勤王」のもとに諸勢力の統合を図ろうとするが失敗し、島津久光の唱える「公武合体」が推進される。

・革命の時代:1863(文久3)-1871(明治4)

西郷構想の復権。戊辰戦争(幕府支持勢力の一掃)→新政府樹立。1871年の廃藩置県によって革命の時代が終わる。

・建設の時代:1871(明治4)-1880(明治13)

富国派(大久保)、強兵派(西郷)、憲法派(木戸)、議会派(板垣)の四者対立。→「富国」派の勝利。→しかし、1877年の地租改正は増税を不能とし(えっ?)政府財政を行き詰まらせる一因となる。→1880年代、富国派の挫折。税制って面白いけど怖いなあ…。

・運用の時代:1880(明治13)-1893(明治26)

1870~80年代から地租改正によって富裕化し、納税負担者となった農民の政治参加が本格化する。「好景気を維持する限り税収が目減りする」という地租制度の下、財政を健全化するために、大隈財政→松方デフレ財政への転換が図られた。→中小地主の転落、(大)地主と小作人の身分差が拡大。諸制度が整うことにより、政治主導から官僚主導へ。

・再編の時代:1894(明治27)-1924(大正13)

「運用の時代」が農村地主と官僚の時代であったことを受けて、農村地主の特権を廃し、都市商工業者や小作農に選挙権を与えること(普通選挙制)、官僚内閣を倒して政党内閣を樹立することが「再編」の課題となる。総力戦としての日露戦争(1904-05)は国民に「兵役の平等」を課したが、このことは普選運動には結びつかず、諸勢力の多元化した要求が噴出した。第一次世界大戦(1914-18)末期から吉野作造の唱える「デモクラシー」が一世を風靡したが、1920年頃からは、より直接的な社会主義運動が大学生を引き付けた。

・危機の時代:1925(大正14)-1937(昭和12)

1925年、男子普通選挙制が成立し、憲政会内閣が組織されることにより、政友会との二大政党制慣行がスタート。元来、憲政会は民主的だが高圧外交、政友会は保守的だが平和主義で、一長一短だったが、1925年以降は、憲政会(民政党)が「平和と民主主義」、政友会が「侵略と天皇主義」に結びつくようになり、旗幟が鮮明になった二大政党制は、日本国家を「危機の時代」に導く一因となる。1937年の盧溝橋事件勃発時には、国内の指導勢力は四分五裂し、「崩壊の時代」へ突入していく。

 本書は、ひと月ほど前、先に読み終えた友人から貰ったもの。私は幕末史に関しては、第一に幕府びいきで(江戸っ子だもの)、新政府側では長州びいきなので、薩摩に重点をおく「改革・革命の時代」が、なかなか読み切れなかった。そこをクリアしてからは、スムーズに進んだ。これまで読んできた著者の論考を思い出すことも多かった。

 政治史の素人である私が面白く感じたのは、内政・外交・軍事の動きが、財政(税制を含む)に大きく左右されるという点だ。少なくとも近代初期においては、一般の国民はむろん、政治家も、民主主義国家をつくろうとか、天皇制のためにとか、理念や主義主張で動いてきたわけではないことが分かった。国民の中には、当然、豊かな生活を求め、豊かになれば、次は政治参加や社会的階層の上昇を求める気持ちもあったと思うが、どこかに「身の程を知る」みたいなブレーキがかかっていたように思う。それが、再編の時代=大衆の時代あたりから、理念が一人歩きして、生活実感のない欲望が暴走するようになって、今日に至るような気がする。

 著者は、ひとつの時代を「○○か△△か」という路線対立で把握する方法を好んで使う。学問的に分かりやすいことと、ご自身の嗜好でもあるのだろう。実際、そのように二大勢力が、一長一短を承知で、互いに自分の役割を引き受ける社会というのは、意外と安定するのだと感じた。そのためには、諸勢力は、選択肢A、Bのどちらかに、小異を棄てて大同団結する必要があるのだが、どうも日本人はこれが苦手らしい。「運用の時代」で、政権奪取のための大同団結を目指し、そして失敗した後藤象二郎(後藤様!)の運動が、好意的に言及されており、興味深かった。あと、著者の評価が高いのは高橋是清である。逆に、普通選挙と二大政党制に反対し続けた原敬のことは、ほんとに嫌いなんだなーと思った。

 二大政党制(路線対立)を避けようとすれば、小物指導者を頂く諸勢力の四分五裂を招く。近衛内閣の失敗は、分裂状態をそのまま包摂しようとして、基本路線も、信頼できる与党も、異議を申し立てる他者も、全て失ったことにあるという。なんだか、2012年の日本(中央政界も地方も)とよく似た状況に思われるのが恐ろしい。
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講演・日本美術応援団、東京国立博物館を応援する(東博)

2012-08-05 23:56:24 | 行ったもの2(講演・公演)
東京国立博物館・講演会 東京国立博物館140周年『日本美術応援団、東京国立博物館を応援する』(2012年8月4日、13:30)

 数日前、東博のメルマガを購読している友人から「こんなのあるけど…」と教えてもらった。実は、先週末も東博の平常展を見に行っているのに、全然気づいていなかったので、あわてて「行く!行く!」と騒いでしまった。

 当日「平成館大講堂前にて9:40より整理券を配布」というシステムで、定員380名なら、よほどのことがない限り、あぶれることはないだろうと思ったが、「整理券はお1人様1枚です」なんて厳格な運用を宣言されてしまうと、これは…早起きして行かないと…と、気があせった。結局、10:30頃に行ってみたら、平成館は(というか、暑さのせいか、上野公園そのものが)閑散としていて、少し拍子抜けした。でも、この、のんびりした博物館の「日常感」が私は大好きなのである。

 お昼に友人と落ち合って、久しぶりに法隆寺館のレストランでランチ。13:00開場の少し前に、再び平成館に赴く。まだ整理券は余っていたようだが、いい席を取りたい熱心なお客さんが、けっこう並んでいた。

 定刻の13:30少し前、壇上にあがった東博の職員らしき方が「実は講師の先生から、渋滞で少し遅れるという連絡がありまして…申し訳ありません」と釈明。説明するまでもないが、「日本美術応援団」とは、山下裕二先生、赤瀬川原平さん、南伸坊さんのこと。どなたが遅れているんだろう?と思っているうち「お着きになりました。もうしばらくお待ちください」という報告。

 やがて、舞台上手に登場したのが山下先生。下手に現れたのが、車椅子に乗った赤瀬川さんと、それを押す南伸坊さんだったので、ちょっとびっくりした。山下先生の説明では、朝、車を運転して、町田の赤瀬川さんを迎えに行くのに高速が大渋滞で、さらに赤瀬川さんを乗せて、上野までくる高速も渋滞で…とのこと。日本美術応援団も、すっかり偉く(有名に)なったように思っていたが、東博から迎えの車は出ないのか。自助努力というか、団員どうしの相互扶助なんだな。車椅子姿の赤瀬川さんを見て、みなさん、びっくりされたかもしれませんが、大丈夫です、とフォローあり。

 応援団の結成が1996年で、あれから16年、当時、30代(山下)・40代(南)・50代(赤瀬川)だった僕らも、50代・60代・70代になりました、という。それぞれ、いい年のとり方をしてるなあ。そして、私は山下先生と同世代だが、こんなふうに「いい年のとり方」のお手本を間近に見ることができるのって、うらやましいことだと思う。

 「それにしても、東博から僕たちにオファーがくるなんてね~ェ」という三人の、感慨と揶揄のまじったつぶやきが可笑しかった。山下先生の後ろでパソコンを操作していた東博の職員らしき男性が楽しそうに苦笑していたが、彼は、日本美術応援団の結成時は、まだ学生だった世代だろうか。

 まずは三人の「東博初体験」を聞く。赤瀬川さんは、1950年代半ばのメキシコ美術展だそうで、東博って、昔はそんな特別展もやっていたのか。東京育ちの南さんは、小学生のとき、社会見学で来た写真があるが、何を見たかは全く覚えていない。山下さんは東大に入学して、上京してからだという。ああ、私も東京育ちなので、南さんと同じだ。前庭の池と芝生の記憶だけ、妙に鮮明にあるんだよなあ…。

 それから、山下先生が撮った写真(平常展の東博を訪ねる)を見ながら、三人でトークを展開。上野駅のホームに始まり、東博に到着するまでが長い。確かに最近、東博正面の上野公園がきれいに整備されて、私も驚いていたところだ。冬の頃(?)深い木立がばさばさと伐り払われて、緑地の見通しをよくしたのは英断だと思っていたが、しゃれたカフェもできて、ずいぶん垢抜けた印象になった。「むかしの上野なんてね~ェ」というのはオジサンの昔話。

 館内では、日傘サービス(これは京博とどっちが早いんだろ?)や基本的に館内撮影可のサービスを褒める。最近はずいぶん観客が増えたこと、外人率が高いこと(平日は特にそうだろうな)、しかし日本人の若者も目につくようになった、と山下先生。最近の若者はガイジンになってるから、外人の目で見ると、日本美術が面白いんだよ、という話になる。

 平常展(総合文化展)の展示品も、適宜トークの題材に。南さんが柿右衛門の壺に「いいねー」と反応したり、山下先生が飛鳥時代の菩薩立像(横から見るとものすごく薄い)に「これ、むかしから好きなんですよ!」とおっしゃるのが興味深かった。7/24から展示の始まった久隅守景の『納涼図屏風』の話題には、三人とも熱が入る。2階の途中に黒電話があり、かつ、その上に昔の手回し電話箱の遺物があるのは気づかなかったな…講演のあと、友人と探しに行った。

 結局、1時間半でトークが終了したときは、まだまだたくさん写真を残していたようである。最後に、途中をとばして「いつも空いている法隆寺館」の写真を見せてくれた。「こんなに空いているのに、レストランの強気の値段設定」(笑)とおっしゃっていたが、講演会の直前、私と友人が早めのランチを終えて出ていくときは、お客さんが空席待ちをしていましたけどね。

 この「日本美術応援団、国立博物館を応援する」、ぜひシリーズ化して、京都・奈良・九州でもやってほしい。お願い!
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東博の平常展/帝室博物館総長 森鴎外(本館16室)ほか

2012-08-03 23:34:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館16室(歴史資料) 東京国立博物館140周年特集陳列 生誕150年『帝室博物館総長 森鴎外』(2012年7月18日~9月9日)

 このブログを始めて間もない頃(2005年4月)、東博の同じ展示室で『森鴎外と帝室博物館』と題した特集陳列を見たことがある。鴎外が帝室博物館総長をつとめたことがあると知ったのは、その展示がきっかけだった。いま、その記事を読み返したら「最近、新たな自筆原稿が追加発見されたのだそうだ」とあって、笑ってしまった。

 今回も「上野公園ノ法律上ノ性質」と題した未完の論文が新たに発見され、展示されている。署名はないものの、書簡や日記から、鴎外の作(自筆原稿)と特定された。非常に多くの仕事をした人だから、まだまだ、これから出てくる原稿がありそうな気がする。

 それにしても、各地で公営の文化施設の存続基盤が危ぶまれる昨今、鴎外総長ありせば、博物館や美術館の擁護のため、鋭い論陣を張ってくれたのではないか…と想像してしまう。

※msn産経ニュース「森鴎外の自筆未完論文発見 東京国立博物館で 晩年に公園移管めぐり」(2012/7/4)

■本館・特別1室 特集陳列『美術解剖学-人のかたちの学び』(2012年7月3日~7月29日)

 明治期、ヨーロッパから日本にもたらされた美術解剖学の教科書と、それをもとに描かれた洋画作品を紹介。東京美術学校での美術解剖学教育は、ドイツに学んだ鴎外から、フランスで学んだ久米桂一郎、黒田清輝に引き継がれる。というわけで、この特集も「鴎外つながり」。

 ↓「無名氏」の名前で雑誌「美術評論」に連載された内容に赤字を入れた草稿。「この赤字が森(鴎外)の筆跡であるかは今後の研究が待たれる」とキャプションボードに記されていたけど、これは鴎外だと思う。数字の「32」を見て、そう思ってしまった。



■本館・15室(民族資料)『琉球 琉球の工芸』(2012年7月10日~9月30日)

 あまり関心を持ったことのないこの部屋で、思わず足を止めてしまった。第二尚氏時代を中心とした琉球の工芸作品。まるで、ドラマ「テンペスト」の世界だった。以下、キャプションは、東博がつけていたものではありません。

↓王子冠(ハチマキ)、弁当箱ともいう


↓馬天ノロの勾玉


↓キンカブ、聞得大君の簪


↓どこにでもある簪


※東博には、絶対、ドラマ好きの学芸員さんがいると思う。
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復興は一日に成らず/頼朝と重源(奈良博)

2012-08-02 23:11:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『頼朝と重源-東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆-』(2012年7月21日~9月17日)

 最初の展示ホールに入ると、いつになく見晴らしがいい。展示の章立てでいうと、入口付近が「第1章 大仏再興」、中央左側(建物の中心部分)に引っ込んだスペースが「第2章 大勧進重源」、いちばん遠くが「第3章 大仏殿再建」のイントロ部分にあたる。そして、それぞれのエリアを象徴するように、手前の壁際に後白河法皇坐像(長講堂、彫刻)、これと正対して、突き当りの奥に源頼朝像(神護寺、画幅)、左側の中ほどに重源上人坐像(東大寺、彫刻)が右半身を向ける。そして三者の視線の交錯する中央の展示ケースに、大きな金属製の舎利容器らしきものが鎮座している。これから始まるドラマの登場人物が一目で把握できる空間構成だなーと思った。重源上人坐像の奥に、同じ方向を向いて並んだ僧形の坐像は、遠目に何者か分からなかった。
 
 長講堂の後白河法皇坐像は、今年3月「京の冬の旅」で拝観したばかり。こんなに早く再会しようとは思わなかった。しかも今回のほうが、ずっとお像に近寄って、さまざまな角度から眺めることができる。切れ長の二重瞼。高い頬骨。すっと通った鼻筋。金色の背景が、顔色を明るく見せている。江戸時代の肖像彫刻としては、まれに見る優品ではないかと思う。でも、長講堂の勅封の肖像画は、やっぱり開けてもらえなかったんだな…残念。

 源頼朝像の印象は何度か書いているので略すが、何度見ても「美麗」な肖像画だと思う。この隣り、入口付近からだと見通せない衝立の影に、同じく神護寺所蔵の文覚上人像も来ていた。小山のようないかつい体躯。ドラマだったら、絶対プロレスラー枠だろう。

 東大寺俊乗堂の重源上人坐像は、本来、年2回(7/5と12/16)しかご開帳にならない秘仏だが、いろいろな展覧会で、たびたびお目にかかっている。魅力の尽きないお像だが、没後八百年経っても、まだ勧進に駆り出されているみたいで、ご苦労なことだ。背後の窪まったエリアは、東大寺以外にも、多数の造寺・造仏にかかわった重源の活動を紹介する。快慶作の秀麗な阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像が並んでいて、快慶と重源の緊密な関係が強調されていた。そうかー重源おじいちゃんは、意外と耽美系好みだったたのかもしれない。

 耽美といえば、播磨別所に伝わる舎利容器(金銅角五輪塔)は、金属の無機質な美、幾何学的な構成が際立つ、斬新なデザイン。火輪が正四面体(三角錐※普通は四角錐)という変り種。地輪(方形)が容器になっており、蓋を外すと、身の側面には四天王が線刻されている。会場ではちょっと見にくいが、図録で見ると、生き生きした表情がかわいい。

 重源上人坐像の隣り、遠目によく分からなかったのは、善導大師坐像(奈良・来迎寺)だった。初見。左膝を立てて座り、大きく口を開けて念仏を唱える異相。快慶作とも言われる。重源は入宋時に四明(寧波)で浄土信仰の盛行を直に経験したはず、という。なるほど、そういうことか。

 こんな調子で、文献(玉葉とか)は読んでいると面白いし、南都焼討シーンしか見たことのなかった『東大寺大仏縁起絵巻』は、珍しく他の箇所も開いているし、最初のホールで1時間以上もうろうろしていた。興福寺関係文書によれば、大仏建立後、大仏殿を造営するため、大仏の後山の土の撤去が必要となったとき、後白河法皇が東大寺に御幸して、自ら土を運び棄てた記録があると知って、胸の内で爆笑してしまった。本人は天然なんだろうけど、結果的に人のやらないパフォーマンスになってしまうあたり、ルーピー鳩山さんに似たところがあるかも。

 東大寺の再興は、はじめ後白河法皇による「大仏」の再興、続いて頼朝による「大仏殿」の再興が行われた。あいにくの悪天候となった落慶法要の日、風雨をものともせず伺候する東国武士団が京の人々を驚かせたのは後者のほうだ。この時代の歴史は、よく頭に入っていないので、記憶の断片を確認しながら読み進む。

 重源亡きあと、さらに堂宇の再建を継続するため、大勧進の職を引き継いだのが栄西、そして退耕行勇。それぞれ、鎌倉の寿福寺、浄妙寺に伝わる肖像彫刻(鎌倉国宝館でよく見る)と思わぬ再会。奈良と東国の縁って、意外と深いんだな、と思う。

 それにしても、わずか一夜(?)で焼き払われた東大寺の復興に、このように長い歳月が費やされたことに、強い印象を受けた。さらに、ようやく復興した東大寺は、戦国時代に再び焼失し、またも復興の努力が重ねられる。南都、あるいは日本の真に誇るべき点は、「古いものが残っていること」ではなくて、天災や人災で古いものが失われかけても、そのたび「復興を重ねてきたこと」なのではないかと思った。
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